主日礼拝説教 2023年10月15日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年10月15日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書22章41~46節
  • 説教題:私の思いにまさる主

●説教音声

●暗唱聖句

あなたがたはキリストについてどう思いますか。

マタイの福音書 22章42節

●説教要旨

◎キリストとは

「キリスト」とは、救い主、ということですが、もともとは「油注がれた者」という意味でした。神さまからの特別な使命が与えられることをあらわし、王さまや祭司、預言者に対して行われました。後の時代になって、イザヤ書45章1節には「油注がれた者キュロス」という言葉が出てきます。キュロスはペルシャの王であってイスラエルの王ではありませんが、当時支配されていたイスラエルを解放した王として、油注がれた者と呼んだのです。イエスさまがご降誕くださった時代のイスラエルは、ローマによって支配されていました。人びとは、キュロスのように自分たちを解放してくれる救世主を待ち望むようになりました。かつてのダビデ王のように力強い存在が生まれ、自分たちを解放してくれることを期待したのです。こうして油注がれた者、メシア、キリストは、救い主の意味を持つようになりました。

イエスさまに出会う人びとは、イエスさまを「ダビデの子」と呼びました。またエルサレムに入城されたときには、「ダビデの子にホサナ」と歓迎しました。この人びとは、イエスさまこそ、油注がれた者、救世主、メシア、キリストである、と期待したのです。
パリサイ人たちが集っていたときに、イエスさまは彼らに尋ねられました。「あなたがたはキリストについてどう思いますか」。彼らは即座に答えました。「ダビデの子です」。彼らは、キリストとはダビデの末裔として来られるお方である、ダビデの末裔として来られるという意味は、自分たちの国を解放してくださる力強い王である、と答えたのです。
しかしイエスさまは、詩篇110編1節を引用し、「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」と語られました。つまりキリストは、あなたがたが期待するようなダビデの子、ダビデの末裔ではない、と言わます。

◎私の主

「あなたがたはキリストについてどう思いますか」。キリスト、救い主、というのは、あなたにとってどのような存在であるのか。私たちはこの問いにどのように答えるでしょうか。私にとって、キリストとはどのようなお方なのか。
私たちが教会にやってきたきっかけや理由はさまざまだと思います。人生の問題に出会い、その解決を求めてやって来た人もおられるでしょう。さまざまな苦しみの解決を求めてやってきたという人もおられるでしょう。大なり小なりそれぞれなりの救いを求めてやってきたのだと思います。そこで救いの経験をいただくこととなる。救い主とはなにか。救いとは何か。それぞれの抱える問題に答えをいただくことが救いであり、そのように答えてくださる存在こそ、救い主、キリストである、と思います。
しかし、それはこのパリサイ人たちのように、ただ自分たちの願望を満足してくれるのが、救い主である、としていることではないだろうか、と思いました。

イエスさまは詩篇を引用して「ダビデがキリストを主と呼んでいるなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」と問われました。これには誰も言い返すことが出来なかった、それ以降、もう誰もあえてイエスさまに問いかけようとはしなかった、と聖書は語ります。
ダビデは、キリストのことを「私の主」と呼んだのです。キリストとは、「私の主」、とお呼びするお方である、とイエスさまは言われたのではないかと思います。キリストとは何か。救いとはいったいなんであるのか。マタイの福音書は、キリストとは「私の主」であり、救われるとは、この私の主とお呼びするお方とお出会いすることにある、と語るのだと思います。

イエスさまにお出会いするまでは、「私が主」の人生を歩んできました。しかしイエスさまにお出会いして以来、イエスさまが「私の主」となってくださいました。これが救われるということなのだと思います。
私の主となってくださったイエスさまは、天と地の造り主であり、今もすべてをその御手によってご支配されているお方です。私たちは、罪と滅びの中にしか生きることが出来ず、善をなそうとしてもかえって悪をなしてしまう者でした。その私のために、イエスさまは十字架にかかり罪の一切を赦してくださいました。そして復活して今もともにいてくださいます。私たちが罪から離れ、神さまに向かって生きることができるように聖霊を遣わしてくださいました。
ダビデのように私もこのイエスさまを、私の主、と呼べることを感謝したいと思います。私の思いをはるかに超えたイエスさまが、新しい一週間も導いてくださいます。

●祈り

十字架に架かり甦って、限りない愛をもって日々導いてくださるイエスさまを、私の主、と告白することの幸いを覚えて感謝します。この一週間も、あなたのしもべとして遣わしてください。


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