主日礼拝説教 2023年10月1日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年10月1日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書22章34~40節
  • 説教題:健やかに生きるために

●説教音声

●暗唱聖句

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。

マタイの福音書22章40節

●説教要旨

◎神を試さない健やかさ

パリサイ人たちが集まりました。それはイエスさまがサドカイ人たちを黙らせられたことを聞いたからです。彼らは自分たちの中から律法の専門家一人を選んでイエスさまのところに遣わしました。そしてイエスさまを試そう、試みようとして問いを投げかけました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」。

すでにパリサイ人たちはイエスさまを試そうとして離縁について(19・3)、税について(22・15)の問いをしました。いずれもイエスさまは見事に彼らに答えられました。今回、再びイエスさまを試そうとして問いをしました。先の問いには、少なからずパリサイ人たちの悪意を読み取ることが出来ると思います。しかし今回のこの問いにはどこに悪意があるのでしょう。どうしてこの「律法の中でどの戒めが一番重要か」という問いがイエスさまを試すことになるのでしょう。
この「試す」という言葉は、悪魔がイエスさまを誘惑する場面(マタイの福音書4章)で使われた言葉です。悪魔はイエスさまを試みるために三つのことを命じたのです。その時のイエスさまの答えの一つとして「あなたの神である主を試みてはならない」と申命記6章6節を引用されました。試みる、ということは、それ自体が悪魔のなす業なのです。
私たちは愛がなければ生きていけません。しかし、愛されているかどうかを試そうとするならば、途端に愛は破壊されてしまいます。愛は信頼の上にだけ成り立つのです。それは人間関係だけでなく、神さまとの関係においても同じです。神さまの愛を試そう、とすれば、そこに神さまへの愛が生まれることはありません。
「律法の中でどの戒めが一番重要か」という一見信仰的な問いも、その問いをする者の心の底に神さまを試す、という心が潜んでいるならば、そこに信頼、そして信仰が生まれることはないのです。
祈りが聞かれたならば神さまを信じよう、というのは人情としてはとてもよくわかることです。しかしそれが神さまを試みることであるならば、悪魔のなしたことと同じなのです。そこに信仰が生まれることはないのではないでしょうか。むしろまず信じてみる、信頼をしてみる、というところに信仰の扉は開くのではないでしょうか。神さまを試みたくなることから自由になり、神さまへのひたすらな愛と信頼に生きていくところに健やかな歩みが生まれます。

◎三つの愛に生きる健やかさ

イエスさまは、この自らを試そうとしてなされた質問に対して、そのことを十分知りつつも、まっすぐに答えて下さいました。律法の中で一番重要な戒めは、まず神さまを愛すること(申命記6章4節)である、と。これはイスラエル人であれば誰しも知っている言葉です。そしてもう一つ挙げられました。それはレビ記19章18節からの言葉で、隣人を自分自身のように愛すること、でした。イエスさまはこの二つの戒めこそ最も大切な戒めであり、律法と預言者の全体がこの二つにかかっている、と言われました。
「かかっている」という言葉。それは蝶番(ちょうつがい)のようなものである、と説明されます。しっかりとした蝶番にかかっている扉は、自由に動くことが出来る、しかし蝶番があやふやならば、扉自体もあやふやになってしまう、と。聖書を読んでも、この二つの戒めに生きることがないならば、それは聖書を読んだことにならない、聖書のどこを読んでもこの二つの戒めを読み取っていくならば、本当の自由に生きる者となる、と。

神さまを愛すること、そして隣人を愛すること。そこには、今一つ自分を愛するように、という言葉があります。自分への愛、というと、どこか自己中心的でわがままな愛を想像してしまいます。しかし自分への愛が、本当の愛であるならば、それは自分を真実に生かす愛であるはずです。いっぽう自己中心やわがままというのは、愛のように見えて本当は愛ではないということでしょう。本当の愛であれば、それは生かすものであるはずですが、自己中心やわがままは自分を滅ぼしてしまうものでしょう。それはまた隣人をも滅ぼしてしまうものとなるでしょう。
自分への真実な愛が隣人への真実な愛を生み出すのです。自分を愛することを知らない愛は隣人を愛することが出来ません。むしろ隣人を破壊してしまうことになります。自分を愛するということは、自分を受け入れる、ということです。過去にどんな歩みをしてきたか、今どのような状態の中にあるのか。すべて完璧な人はどこにもいません。どこか欠けがあり、否定したくなるようなものを持っています。それが人間です。そのような自分をありのままに受け入れること。それが自分を愛することです。
もし自分を愛さずに隣人を愛そうとするならば、すべての行動が自分への愛を確かめるための作業となるでしょう。隣人への愛と言いつつも、そのすべてが、自分が愛されているかどうかを確かめる作業、となるならば、そこには自己中心があるだけで、結局破壊的な言動を生み出すだけになるのではないでしょうか。
しかし自分をありのままに受け入れる、ということは簡単なことではありません。それが可能となるのは、自分さえも見捨ててしまいそうになる自分自身を、命がけで愛してくださったお方に出会うことです。十字架において明らかにされた神さまの愛に出会うことです。神さまの愛、自分への愛、そして隣人への愛。この三つが一つとなるところに健やかな歩みが生まれるのです。

●祈り

神さまを試したくなることから自由にしてください。そして神さまへの愛に出会い、自らを愛する、大切にする道を教えて下さい。そうして隣人への愛に遣わしてください。


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