聖書愛読より 「仲間」 マタイ18・21~35(週報2023年9月24日号)

牧会ずいそう 週報2023年9月24日号

聖書愛読より 「仲間」 マタイ18・21~35

「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。』イエスは言われた。『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」
(21,22)
「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」(33)

 罪を犯さない人は一人もいません。人間は大なり小なり罪を犯すものです。罪の中にはうっかりと犯してしまったミス、失敗もあるでしょう。あるいは確信をもって成した言動が後で振り返ってみると間違いであったということもあるでしょう。さらには知らず知らずのうちに犯している罪というものもあるでしょう。
 ですからおおよそ人間関係が良好にあるためには、罪を犯さない、ということよりも、お互いに赦しあう、ということが大切です。赦したいという感情がわくためには三つの手続きが必要である、と言われます。①「解放すること」。イエスさまの御手に委ねること。②「自由にする」。自分の心の牢獄から自由にすること。③「恩恵を与える」。敵としてではなく罪に苦しむ同じ人間としてみること。
 神さまを信じて救われたということは、罪びとの頭であった私を神さまがあわれんでくださったことを信じたということです。それはまた他者への赦しに生きる者へと遣わされたということでもあります。教会は罪を犯さない者たちの仲間ではなく、赦しあう仲間なのです。


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