- 2023年9月17日(日)
- テモテへの手紙第一1章12~17節
- 説教題:神様に誉れと栄光が
説教音声
暗唱聖句
どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
テモテへの手紙第一1章17節
説教要旨
真実な言葉の前で
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」、この言葉は真実です。「キリスト・イエスは世に来られた」というのは、確かな言葉です。だからこそ、そのまま受け入れるに値する言葉です。しかし、それは、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉が真実であることを、客観的に証明できるということではありません。客観的に証明されたら、信じて受け入れることができるということではありません。パウロは、自分の問題として、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という真実な言葉と向き合いました。
問題は、私たちが聖書の言葉の真実さを問うことではないでしょう。そうではなくて、私たちの方が聖書の言葉の前で問われているということです。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という真実な言葉の前で、問われているのは私たちの方だということです。私たち自身だということです。大切なことは、真実な言葉の前で、私たち自身が問われている者であることに気づかされることです。そして、問われている者として、応答することです。
イエス様は、天の王座に座って、ただ一言だけ、「赦す」と言われたのではありません。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という真実な言葉のとおりに、私たちの世界に来てくださいました。それは、私たちを愛されたからです。私たちと共に生きることを、互いに愛し合って生きることを願ってくださったからです。だからこそ、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。すべては神様の真実な愛から始まりました。私たちに必要なものは、その真実の愛です。
「罪人のかしらです」
パウロは「罪人のかしらです」と言っています。「罪人のかしらでした」ではありません。
パウロは、「罪人の頭だったけれども、憐れみを受けた」と言っているのではありません。そうではなくて、現在も罪人の頭だと言っているわけです。パウロは、長い信仰生活を送ってきた上で、しかも、忠実に福音宣教の務めを果たしてきた上で、改めて、自分が罪人の頭であることを告白しているということです。
イエス様と出会ったパウロの人生は変わりました。もはや、迫害する者ではありません。暴力を振るう者ではありません。神様を冒瀆する者ではありません。しかし、パウロが見つめていたのは、あくまでも、自分が罪人の頭であるということでした。神様の憐れみを必要とする罪人の頭だということでした。パウロは、どこまでいっても、自分が神様の憐れみを必要とする罪人の頭であることを弁えていたということです。
ちなみに、パウロは、自分のことを、後に続くクリスチャンたちの「先例」と言っています。先例というのは、手本であり、模範だということです。後のクリスチャンである私たちは、パウロを模範や手本として歩む必要があるということです。そして、それは、私たちもまた、自分こそが罪人の頭であることを告白して生きるということです。だからこそ、神様から受けた恵みに感謝して生きるということです。それは、自分を誇りとして生きるのではなくて、神様を誇りとして生きることです。
栄光と誉れは神様に
テモテへの手紙第一1章12-17節は、パウロの個人的な証しのような内容です。その証しは感謝から始まっていました。そして、感謝から始まった証しは、賛美で締めくくられています。「頌栄」と言ってもいいでしょうか。頌栄というのは、すべての栄光を神様にお返しすることです。そして、それは、口先だけのことではないでしょう。
パウロは、自分こそが罪人の頭であることを告白しました。パウロは、自分が神様の憐れみなしには生きることのできない罪人であることを覚えながら、神様の憐れみを求めました。神様の憐れみに支えられて生きました。そして、神様の栄光は、そんなパウロの生き様そのものに現されていたのではないでしょうか。神様の栄光は、私たちが、神様の憐れみなしには生きることのできない罪人として、その神様の憐れみに支えられながら、神様だけを誇りとして生きる小さな歩みの中に現されるということです。
祈り
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」、この真実な言葉の前で、私たちもまた、神様の憐れみなしには生きることのできない罪人の頭であることを覚えさせてください。神様の憐れみに支えられながら、神様だけを誇りとして生きる者とならせてください。その小さな歩みを通して、神様だけが栄光をお受けになることを心から願います。新しい一週間の歩みを導いてください。