- 主日礼拝説教:2023年9月10日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書22章15~22節
- 説教題:神のものを神に
●説教音声
●暗唱聖句
それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。
マタイの福音書22章21節
●説教要旨
◎真理に向かう者の心構え
「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか」。パリサイ人たちが「出て来て」「相談」し、その上で「自分の弟子たち」をイエスさまのもとに遣わして問いました。いわば公式の質問です。
「先生、私たちはあなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです」。彼らはいま「真実」「真理」に自分たちが相対しているということを告白しています。そのうえで「ですから、どう思われるかお聞かせください」と問いました。
自分が真理に向かっていることを理解している者の問い。それはどのような態度をもってなされるべきでしょうか。自分の無知を反省し、自分の考えを改め、自分自身を変えようとの決意がそこにあるべきでしょう。
しかし彼らの問いは、そもそも「イエスをことばの罠にかけよう」との思いから出発しました。そのうえで「ヘロデ党の者たちと一緒に」イエスさまのもとに自分の弟子たちを遣わしています。彼らの問いは、真理に向かう者の問いではなく、むしろ犯罪者に向かってなされる詰問のような問いでした。
この「税金」は当時イスラエルを支配していたローマに納める税金のことです。納める時には、ローマの貨幣で支払わなければなりませんでした。ローマの貨幣には、皇帝カエサルの銘が刻まれています。ある説明では、皇帝神の子、ともとれるような言葉が刻まれていたそうです。偶像礼拝を厳しく禁じたユダヤの人々にとっては屈辱的なことでした。特に律法に忠実に生きようとしたパリサイ人にとっては我慢のならないことでした。一方同じユダヤ人の中でも、現実に妥協して生きること受け止めた人たちもいました。時の王ヘロデ一族も、支配者ローマとうまくやっていく道を選んだのです。税についての反対派がパリサイ人たちとすれば、ヘロデ党の者たちは賛成派です。
「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか」。かなっていると答えればパリサイ人たちは黙ってはいません。律法をないがしろにするとイエスさまを非難するでしょう。逆にかなっていないと答えるならば、今度はヘロデ党の者たちが黙ってはいません。どちらにも答えることの難しい問いでした。
イエスさまは「彼らの悪意」を見抜かれました。「なぜわたしを試すのか」「偽善者たち」。悪意、試す、試みる、ということ、そして偽善がそこにあることを見抜かれたのです。
今朝私たちも真実であるお方、真理であるお方、だれにも遠慮せず、人の顔色もうかがうことのないお方に、相対しているのです。そのお方が聖書のお言葉をもって語りかけてくださるのです。私たちは、自らが変えられる決意を持っているだろうか。自分を反省し、自分の考えや心を振り返り、それを変えようとの思いを持っているだろうかと思いました。
◎神のかたちが刻まれた私たち
イエスさまは、彼らの悪意を見抜かれたうえであらためて彼らに問われました。「税として納めるお金」すなわち税金用に準備したお金を見せなさい、と。すると彼らはローマ皇帝の銘が刻まれているデナリ銀貨を持ってきました。彼らがちゃんと持っていたということは税を納めていたということでしょう。
「これはだれの肖像と銘ですか」。彼らは答えました。カエサル、すなわち皇帝の肖像と銘です。そのときイエスさまは言われました。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」。
カエサルのものはカエサルに返しなさい。つまり税を支払ったらよいではないか、と言われたのです。
例えばローマ人への手紙13章でパウロは「上に立つ権威に従うべきである」と語っています。そこで「同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです」(6)「すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。」(7)と語っています。
税を納めるべきか否か。それが異教の偶像礼拝に関係することであったならどうすべきであるのか。
ここでイエスさまが「それなら、カエサルのものはカエサルに」返しなさい、と言われたのは、積極的に支払うべきであるとか、逆に何がなんでも拒否すべきであると言われたのではないと思います。「それなら」、という言葉からは、その問題も大切かもしれないが、それ以前にもっと大切なことがあるのではないか、神のものを神に返すことがもっと大切なことなのではないか、と言っておられるように思うのです。
神のもの。それはいったい何でしょう。カエサルの肖像と銘が刻まれているのがデナリ銀貨だとすれば、神さまの像が刻まれているのはいったい何でしょう。
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1・27)
神の像、すなわち神のかたちが、私たち一人ひとりには刻まれています。私を神に返すこと。共に生きるお互いを神に返すこと。もしそういう信仰の生き方が成されているならば、悪意をもって試すような生き方は生まれることがないでしょう。真理なるお方の前に立つならば、私を変えて下さい、との祈りへと導かれるのではないかと思います。
私を神に返す。また愛する者を自分の手に握りしめるのではなく、神さまの御手の中にお返しする。そこに悪意をもって試すような生き方から自由にされ、健やかな人生が築かれます。
●祈り
今朝も真理であるあなたの前に立っています。私も、そしてともに生きる愛する一人ひとりもあなたのものです。どうかあなたの御手の中で新しくしてください。