牧会ずいそう 週報2023年9月3日号
聖書愛読より 「重荷」 ルカ23・26~31
「彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。」
(ルカ23・26)
共観福音書のマルコ福音書の並行記事には「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた」(マルコ15・21)と書かれています。「クレネ人シモン」を福音書の中で紹介するのに、その子どもたちの名前を記しています。つまりクレネ人シモンと聞いてもピンとこないのですが、その子ども「アレクサンドロとルフォス」の名前を聞くと、ああ、彼らのお父さんのことか、と理解できたということでしょう。読者には「アレクサンドロとルフォス」はよく知られた人物であったということです。福音書は教会において書かれたものですから、その教会においてよく知られていたということは、彼らは教会の仲間であった、キリスト者であった、ということでしょう。
そういう想像が許されるとすれば、彼らの信仰は、彼らの父である「クレネ人シモン」によってもたらされたと考えてもよいでしょう。ではクレネ人シモンはどのようにイエスさまを信じるようになったのか。おそらくたまたま居合わせたイエスさまの十字架刑で、兵士にむりやりイエスさまの十字架を負わせられた、ということが始まりだったのではないかと思います。
予期せずして背負わされた十字架。それが自らの信仰の始まりとなり、家族の救いに実を結んでいったのです。もし今私たちが予期せずして背負わされた十字架があるとすれば、それは大きな祝福の始まりかもしれません。