主日礼拝説教 2023年8月20日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年8月20日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書21章33~46節
  • 説教題:人の思いを超える神の愛

●説教音声

●みことば

家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
マタイの福音書21章42節

●みことばの一滴

◎私たちの目には不思議な神さまの愛

祭司長たちに向かってイエスさまからの語り掛けが続きます。二つの問いがなされました。「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものか」(25)、「二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたのか」(31)。「もう一つのたとえを聞きなさい」と始まる語りかけにおいて三つ目の問いがなされます。「ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう」(40)。
このたとえ話はこうです。ある家の主人が準備万端のぶどう園を造ります。それを農夫たちに貸し自分は旅に出ました。収穫の時期か来たので、収穫を受け取ろうとしもべたちを遣わします。しかし、農夫たちはそのしもべを傷つけたり殺したりしてしまいました。遣わしたしもべが帰ってこないのでこの主人はしもべを送り続けます。とうとう息子まで送ります。しかし農夫たちはその息子を殺してしまいました。
そこでこのぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするだろうか、とイエスさまは問われたのです。祭司長たちは答えました。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう」(41)。
こう答えた彼らにイエスさまは、「あなたがたは、聖書に次のように書いてあるのを読んだことがないのですか」と言われました。そして詩篇118編22,23節を引用されました。つまり彼らの答えは、イエスさまには、聖書のこの個所を読んだことがない者の答えであった、ということでしょう。聖書を読んでいたならばそんな答えはしないはずだ、ということでしょう。
このたとえ話はよく読んでみると不思議なお話しです。収穫をいただこうと遣わしたしもべがことごとく帰ってこないのです。いったいぶどう園で何が起こっているのか。ただならぬことが起こっていると想像できるでしょう。しかしこの主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、息子を彼らのところに遣わした、というのです。人間の常識を超えてどこまでも農夫たちを信じようとする主人の姿が語られています。
このたとえの主人とは神さまのことです。詩篇の言葉「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ」との言葉には、どこまでも人間を見棄てようとなさらない神さまのお姿が記されています。それは私たちの目には不思議な神さまの愛なのだと思います。
この私の目には不思議な神さまの愛を見失ってはならないと思いました。

◎神の国の実を結ぶ民となろう

さてこれに続いてイエスさまは言われました。「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」(43)。
これは、41節の祭司長たちが答えた「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう」(41)と同じ意味に思えます。
世界は神さまが創造されたものです。その世界を人間は神さまから預かっています。やがて収穫の時、そして審判の時がやって来ます。また審判の時と言わなくても、人生の終わりには預かっていたものをすべて手から放し、神さまにお返しします。その時にちゃんとお返しすることが出来るだろうか。神の国の実を結ぶことが出来るであろうか。そのために今私は神の国の実を結んでいるだろうか、と考えさせられます。
この「神の国の実を結ぶ」こととはいったいどういうことでしょう。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」
(ガラテヤ5章22,23節)

ここに記されている御霊の実を神の国の実と考えてよいと思います。この一つひとつは、行動を表す言葉である以上に、人間の「在り方」、人生の在り方を表しているように思います。どのような行いが出来たか、どのような結果が残せたか、ではなく、どのような心をもって行ったのか、ということが問われているように思うのです。目に見えるものではなく、目に見えないものといってもよいかもしれません。第一コリント13章を見ると、人間には愛のない宗教活動、愛のない説教、愛のない信仰、愛のない犠牲、施しもしてしまえる罪びとなのです。どんなに立派な奉仕が出来ても、そこに「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」がないならば、それは神の国の実を結んでいるとは言えません。

祭司長たちは、このたとえを聞いて、自分たちについて話しておられるのだと気づきました。それでイエスさまを捕えようとした、というのですが、本当に自分たちのことをあきらめずに追い求めておられるイエスさまの愛に気づくことが出来たならば、また神の国の実を結ぶことを期待し続けておられる神さまの愛に気づくことが出来たならば、自分たちについて話しておられると気づいた途端喜びが起こったのではないかと思います。
神さまは愛なるお方なのです。神さまが愛であることを信じるならば、神の国の実を本当に豊かに結ぶ人生を歩むことが出来るのです。

●祈り

家を建てる者たちが見棄ててしまうような石を、要石としてくださるあなたの愛を感謝します。不思議なことです。どうかあなたの愛の不思議にいつも驚くことが出来るように、また感謝することが出来るように助けてください。


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