主日礼拝説教 2023年8月6日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年8月6日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書21章23~27節
  • 説教題:神さまからの問い

●説教音声

●みことば

イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。

マタイの福音書21章24節

●みことばの一滴

◎神に問うことと神から問われること

エルサレム入城の翌日、イエスさまは神殿の中で教えておられました。それを見た祭司長たちや民の長老たちがイエスさまのもとにやって来て問いました。「何の権威によってこれらのことをしているのか」。
神殿の外ではなく中、境内において教えておられたイエスさまに、彼らは我慢ならなかったのです。ここは私たちのテリトリーだ、何の権威によって教えているのか、だれが許可したのか、だれの赦しを得て教えているのか、と彼らは問いました。

私たちも様々な場面で「問い」ます。何かにけつまずいたら「だれがこんなところに物を置いたのか」と問います。それは問いという形の非難であり怒りでしょう。過ちを犯したであろう者に向かって「正直に言って見なさい。何をしたのか」と問うときは、警察官の尋問のようです。教室で先生が生徒に向かって質問をするときは、先生はすでに質問の答えを知っていて生徒が正しく答えるのを期待しています。逆に生徒が先生に質問するときは、分からないことを尋ねています。
「何の権威によって・・・」と問う祭司長たちに向かって、イエスさまが「父なる神さまの権威によって教えているのだよ」と答えたとしてもおそらく彼らは納得しなかったでしょう。祭司長たちは、問いに対する答えを求めていたのではなく、ここで教えてもらっては困る、今すぐやめなさい、ということが言いたかったのだと思います。

しかし、この「何の権威によって」という問いは、信仰的な問いであるともいえます。何の権威によってこれらを行っているのか、あなたが教えていることは本当に神さまからの権威によるものなのか、もし本当に神さまの権威によるものであるならば、決して従わないわけではない。ひとつあなたの教えている権威の出どころをはっきり教えてほしい、と。
教会にやって来て求道生活が始まると、尋ねたくなることが出てきます。神さまはおられるのか、礼拝とは何をしていることなのか、三位一体とはどういうことか、聖書はどのように書かれたのか、祈りはどうすればよいのか、などなど。その一つひとつに牧師や先輩のキリスト者たちは答えます。しかしそうして疑問に対する答えが分かれば、確かに理解は深まるかもしれませんが、信仰が生まれるのか、というとどうもそうではないように思います。
ここでイエスさまは、「わたしも一言尋ねよう。それにあなたが答えるなら、わたしも何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう」と言われました。問う祭司長たちに対して、逆にイエスさまが問われたのです。そしてその問いに答えるならば、神さまは「答えましょう」と言ってくださったのです。
知識としての理解が深まるためには質問をしてその答えを受け止めるということが必要でしょう。しかし信仰が前進する、深まるということにおいては、神さまのなさる問いに対して、自分がどう答えるかが大切なことなのです。

◎神の権威に生きる健やかさは、私の権威を捨てることから

イエスさまの問いはヨハネのバプテスマ(洗礼)に関することでした。ヨハネの語った洗礼は、悔い改めの洗礼でした(マタイ3章1節~)。人びとに向かって「罪を悔い改めなさい」と語ったのです。その言葉に答えて多くの人びとがヨハネのもとにやって来て、自らの罪を認め悔い改めて洗礼を受けました。やってきた人たちは「悔い改めよ」と語るヨハネの言葉が、天からのもの、神さまの権威によるものであることを受けいれたのです。
イエスさまは、このヨハネのバプテスマは天からのもの、すなわち「悔い改めよ」という言葉は神さまからの言葉だったのか、それともただ人間が好き勝手にやっていることだったのか、どちらなのか、と問われました。この問いに、祭司長たちは論じ合いました。答える、ということは、態度を決定することです。態度を決定するとなると失うものも出てきます。ここでいずれの答えも自分たちの立場を悪くするように思えました。自分たちの権威が失われてしまうかもしれないと考えたのです。自分たちの権威を守るために彼らは「分かりません」と答えました。

分からないと答える彼らに、イエスさまは「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」と答えられました。祭司長たちは、自分たちの権威を守ろうとして、結果神さまの権威に生きることが出来なくなりました。

聖書は人間はみな罪びとである、と語ります。その罪びとを愛してくださった神さまがいてくださる。十字架と復活の愛をもって今も愛していてくださる神さまがおられる。その愛を受けいれて生きるところに人間の健やかな歩みが生まれる、と語ります。
そのためには、私の罪のためにイエスさまが十字架に架かってくださったことを受けいれなければなりません。それを受けいれるためには、そのように語る聖書の権威を認めなければなりません。また自分が罪びとであるということを認めなければなりません。
神さまの権威を認めて、自分が罪びとであることを認めるためには、自分の権威を捨てなければなりません。自分のプライドや面目といったものを守ることから自由になるのです。自分のプライドが傷つけられても自由でいられるようになることです。あなたは本当に罪びとですね、と言われて、本当にそうなんですよ、と答えることができる自由をいただくことなのです。それはまた群衆を恐れることからも自由にされることです。祭司長たちは、それができなかったのです。

キリスト教信仰に生きるということは、自分の権威を捨てて、神さまの権威を受けいれて生き始めることなのです。自分の権威を守ることに終始する縛られた生き方から解放され、神さまの権威を受けいれて、神さまが私の人生の主であることを感謝して生きていきたいと思います。そこに人間の健やかな歩みが生まれます。

●祈り

十字架に架かるほどの愛をもって愛していてくださる神さまが、私の人生の主となってくださったことを感謝します。あなたの権威の中に生きることの自由、喜びを私たちのうちに確かにしてください。


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