主日礼拝説教 2023年7月30日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年7月30日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書21章18~22節
  • 説教題:実を結ぶ生き方

●説教音声

●みことば

あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。

マタイの福音書21章22節

●みことばの一滴

◎主のお心を満たさない人生

イエスさまは宿とされたエルサレム近郊のベタニヤ村から都エルサレムに向かわれます。そのことを聖書は「朝早く都に帰る途中」と記します。前回学びましたようにエルサレムにはイエスさまはお泊りになるところ、居場所がありませんでした。しかしそれでもそこはイエスさまにとっては帰るべき神の都なのです。昨日は多くの人々が「ホサナ」と歌い歓迎しました。しかし今日は歌声は聞こえません。静かな朝です。
その途中にイエスさまは空腹を覚えられました。かつて宣教を開始されたときにも、空腹を覚えられました(4・2)。その時、悪魔は「石をパンに変えよ」と言い、イエスさまを試みました。しかしイエスさまは、人はパンだけで生きるのではない、神の言葉によって生きるのだ、と言われ、悪魔の誘惑を退けられました。いま宣教の終わりに再び空腹を覚えられたイエスさまは、一本のいちじくの木に、自らの飢えを満たす実を求められます。
一本のいちじくの木が、神の御子の空腹を満たすためにそこに植えられています。しかし葉があるだけで、実はありません。イエスさまは、今後いつまでも実がならないように、と言われました。すると、たちまち枯れてしまいました。恐ろしい出来事です。季節は春です。いちじくが実をつける季節ではありません。実をつけていないのは自然の法則です。実を求めること自体無理なことでありおかしなことです。にもかかわらず実をつけていないからと言って、枯れてしまった。なんとも理不尽なことです。これが神の業だとすると、その神はなんというわがままな神だろうか、と大いに疑問を持ちます。

しかし、どうしてこのようなことを聖書は書き記したのでしょう。ただでさえ理解の難しい聖書がさらに難しくなるだけではないでしょうか。私たちも、これに驚いた弟子たちと一緒になって「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と問いたくなります。

どうしていちじくの木は枯れたのか。それは実を結ばなかったからです。なぜ実を結ばなかったのか。季節でなかったからです。季節でないのだから、実を望むほうが間違っているのではないか。確かにそうです。しかし確かにそうなのでしょうか。

主イエスさまは、天と地を創造されたまことの神さまです。その神さまが、今十字架を前にして空腹を覚えておられる、とすれば、全被造物は、一切の自然の法則を超えて、この神の空腹を満たすのではなかろうか。そのために被造物は造られたのではなかったか。かつて神さまは紅海を分けられ、ヨルダン川をせき止められました。嵐の中の小舟のためにその嵐を静めてくださいました。婚礼の宴の中で、水をぶどう酒に変え、若い二人を祝福してくださいました。ラザロを生きかえらせてくださいました。盲人の目を開け、足の不自由な者を立ち上がらせてくださいました。その神さまが空腹を覚えておられるのです。その空腹を満たすことが出来ないならば、いったい何のために被造物はそこに存在しているのか。葉ばかりが生い茂り、見てくればかりが立派で、この世の称賛の中にあったとしても、神さまの飢えを満たすことが出来ない、とすればいったいその存在意義はどこにあるのか。枯れるしかないのではないか。十字架を前にして深い飢えを覚えておられる主イエスさまの孤独を思いながら、私は神さまの飢えを満たす者となっているであろうか、と考えさせられました。

◎実り豊かな人生 祈りと信頼によって

さて、イエスさまは「どうして」と問う弟子たちに答えられました。しかし、このイエスさまの答えは少し的が外れた答えのように思えます。実を結ばなかったから枯れたのだよ、とお答えになってもよかったのだと思います。しかしイエスさまは「信じて疑わないなら・・・」「信じて祈り求めるものは何でも受ける」と答えられました。
神さまの空腹を満たすための実を結ばない人生は、枯れるしかない、しかし、信じて祈り求めるものは、何でも受けるのだ、実を結ぶ人生は、信じて祈ることによって生まれるのだ、と答えてくださったのだと思います。実を結んでいない、枯れてしまうのではないか、と思われる人生であっても、信じて祈るならば、そこに実が結ばれていく。神さまの飢えを満たす実をあなたたちも結ぶことが出来るのだよ、と語ってくださったのです。私たちは、神さまの飢えを満たすための実を、信じて祈り求めているでしょうか。あらためて神さまの飢えを真実に満たす実とはいったい何でしょうか。

こののちイエスさまはゲツセマネの園で祈られます。信じて祈られます。
「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ2639)。

ここにイエスさまが、神さまの飢えを満たそうと、信じて祈っておられる祈りがあります。「この杯」(十字架)を過ぎ去らせてくださいとの願いを持つ自分が、信じて祈ることによって、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」との祈りに変えられていく。信じて祈るならどんなことでもできる、というのは、なんでも自分の思い通りになる、というのではなく、世界を自分の思い通りにしようとする心が、信じて祈ることによって変えられていく。神さまの御思いがなるようにと変えられていく。私の心こそ、誰によっても、また自分さえも変えることが不可能である、とあきらめていたその頑なな心が、信じて祈ることによって、神さまの御心を第一とする柔らかな心へと変えられていく。まことに、信じて祈り求めるものは何でも受けることになるのです。

神さまの飢えを満たす良い実を結ぶ確かな人生を歩んでいきたいと思います。自分の願望の通りから、神さまの御思いの通りの人生に変えられていきたいと思います。そのために、信じて祈り求めるものでありたいと思います。そうして豊かな実を結ぶ人生を送りたいと思います。

●祈り

葉ばかりが生い茂る人生であることを赦してください。どうかあなたの空腹を満たす実を結ばせてください。自分の十字架を負わせてください。いのちを得る確かな道に生かしてください。


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