- 主日礼拝説教:2023年7月16日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書21章12~17節
- 説教題:祈りの家と呼ばれる
●説教音声
●みことば
幼子たち乳飲み子たちの口を通して
あなたは御力を打ち立てられました。
あなたに敵対する者に応えるため
復讐する敵を鎮めるために。詩篇8章2節
●みことばの一滴
◎近づく者と腹を立てる者
イエスさまは都エルサレムに入られるとすぐに宮(神殿)に向かわれました。そこには、礼拝する者たちのために両替人や鳩を売る者たちがいました。当時いっぱんに流通している貨幣はローマのものであり、それには皇帝の肖像が刻まれています。それを神殿の献げ物とするのを避けたかったのでしょう。ユダヤの貨幣に両替したのです。また動物の献げ物は、本来自宅から持ってくるべきものだったのでしょう。しかし当時の旅を想像するとたいそう骨の折れることです。宮で購入することができれば便利でしょう。そのような事情からか、両替人、鳩を売る者が境内にいました。結局それは商売として成り立っていったのでしょう。まるで信仰の心が売り買いされているようです。
イエスさまはそのような状況をご覧になって、彼らを追い出すというたいそう厳しいことをされました。その時イエスさまが語られたのは、旧約聖書からの引用聖句でした(イザヤ56・7,60・7、エレミヤ7・11)。「わたしの家」(神殿)は、「祈りの家と呼ばれる」べきである、にもかかわらず、あなたたちは「強盗の巣にしている」と。
強盗の巣、とは厳しい言葉ですが、祈りの家となっていない、ということは、強盗の巣と呼ばれる状況なのだ、ということでしょう。それだけ深刻な問題だったのだと思います。
信仰の心が売り買いされる。神さまの恵みが人間の願望の中で売り買いされていく。それは深刻な問題であると私たちは気づいているであろうか、と思います。信仰の心、あるいはその根底にある愛や信頼といったものは、お金に変えられた途端に本来の意味を失う可能性があるのだと思います。
イエスさまのこの行動は少なからず理解の難しいことです。しかしこの宮きよめの出来事はそれを見た人びとに二つの反応を起こしました。
一つは、目の見えない人や足の不自由な人たちがイエスさまのところにやって来るという反応を起こしました。イエスさまがおられたところは「宮の中」です。当時、目の見えない人や足の不自由な人は、宮の中には入れませんでした。しかしこのイエスさまの行動を目の当たりにした彼らは、それまでの因習を突き破ってイエスさまに近づいていったのです。押し寄せてきた、といっても良いかもしれません。イエスさまに近づいてきた彼らは大いなる神さまの恵みをいただきました。
もう一つの反応は、祭司長たち、律法学者たちが腹を立てたことです。彼らは腹を立てイエスさまに文句を言いました。彼らの怒りは、イエスさまの厳しい行動に対してではないようです。「いろいろな驚くべきこと」を見たこと、また子どもたちが宮の中で「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立てたと聖書は語ります。
神さまの御業を見て、イエスさまに近づこうとするのか、賛美を歌うのか、それとも腹を立てるのか。私たちはどちらなのでしょう。
◎祈りの家は賛美の家
腹を立てる祭司長たち、律法学者たちは「子どもたちが何と言っているか聞こえるか」とイエスさまに詰め寄りました。イエスさまは答えられました。「聞いています」。そして詩篇8篇の言葉を引用されました。
聞こえていますよ、まさに詩篇の言葉がここに成就したのですね、と答えられたのです。
子どもたちの賛美に腹を立てる祭司長、律法学者。しかしイエスさまは子どもたちのその賛美の声に、御言葉が成就したと言われました。
ろばに乗ってエルサレムに入城されたイエスさまは、まことの王とは柔和な存在であることを明らかにしてくださいました。そして今、その王を迎えるのは、子どもたちであることを明らかにしておられます。本来ならば、祭司長、律法学者こそ、まことの救い主が来られたことを、だれよりも賛美をもって迎える者たちであるはずです。しかし彼らにはそれができませんでした。ダビデの子にホサナ、と賛美を歌うことができたのは、子どもたち、幼な子たちだったのです。幼な子でなければ、このまことの神さまを賛美することができないのです。
神さまの御業を見て、イエスさまに近づこうとする者は、さまざまな弱さや苦しみの中にある者でした。また賛美を歌うのは、幼な子たちでした。まことに自らの弱さを知り、神さまの前に幼な子である者、すなわち心貧しい者こそ、神さまに近づき、あわれみを受け、賛美を歌う者としていただけるのです。
イエスさまは、その日「彼らを後に残し」、都エルサレムを出て、近くの村ベタニアに行かれ、そこを宿とされました。ベタニアには、マルタ、マリア、ラザロの家がありました。またツァラアトに冒された人シモンの家がありました。その二つは同じだったのかもしれません。
都エルサレムには神の子のイエスさまがお泊りになる場所がなかったということでしょう。かつてこの地に赤子となって降誕された時も、救い主イエスさまには「いる場所」がありませんでした(ルカ2・7)。今、十字架を前にしたとき、神の都にも、イエスさまのお泊りになるところがありませんでした。この世には神さまを受け入れる場所がなかったのです。
「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」とイエスさまは言われました。祈りの家は、幼な子の賛美で満ちています。
「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
(詩篇22・3、新改訳第3版)
神さまは幼な子たちの賛美をご自身の住まいとされます。祈りに、賛美に生きるとき、そこに主がともにいてくださいます。祈りながら、賛美を歌いながら新しい一週間に出発しましょう。
●祈り
神さまの恵みを見失うことがないように守ってください。いつもあなたの大いなる御業を発見し、喜び、感謝し、賛美をささげつつ歩む一週間でありますように。