- 主日礼拝説教:2023年7月9日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書21章1~11節
- 説教題:まことの王が来られた
●説教音声
●みことば
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
柔和な方で、ろばに乗って。
荷ろばの子である、子ろばに乗って。マタイの福音書21章5節
●みことばの一滴
◎私の王とはだれか
イエスさまはエルサレムが近づくと、二人の弟子を遣わしてろばとろばの子を連れて来るように命じられました。向こうの村へ行けば、ろばがつながれているのにすぐに気づくであろう、もし誰かが何かを言えば、主がお入り用なのです、と言えばよい、すぐに渡してくれる、と言われました。まるで世界のすべてがイエスさまの言うことを聞いて従うのだ、と言わんばかりです。弟子たちはイエスさまが言われた通りにしました。そうして連れてこられたろばの背中にイエスさまは乗ってエルサレムに入られました。
ろばの背に乗ったイエスさまがエルサレムに入られると、非常に多くの群衆が迎えました。そして「ホサナ、ダビデの子に・・・」と詩篇の歌を歌い叫びました。都中が大騒ぎとなりました。この人はだれなのか、この人はガリラヤのナザレから出た預言者だと群衆は口々に言いました。
このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであったと聖書は語ります。そしてイザヤ書とゼカリヤ書からの言葉が引用されます。
「見よ、あなたの王があなたのところに来る」。
王。イスラエルの王、あなたの王、私たちの王。王とは「支配をする者」という意味です。あなたの王がここにやって来られた。このイエスさまこそ、あなたの王である、あなたを支配するものである、このお方によってあなたは解放される。このお方のご支配の中に新しく生きることによって、まことの自由に生きる者とせられる、と聖書は語ります。
聖書の語る信仰に生きるということは、このイエスさまを「私の王」としてお迎えすることです。それまでの人生にも王がいなかったわけではありません。私たちはさまざまなものを王として生きて来ました。名誉や財産を王として来たかもしれません。自分自身を王としてきたかもしれません。自分の思い通りに人生を生きることこそ、自由で解放された生き方であると信じて生きて来たかもしれません。しかしそうして果たして本当の自由、本当に解放された人生を手にすることができたであろうか。
目が開かれると信じて手にした木の実によって、何一つ不自由のなかったエデンの園を後にすることになりました(創世記3章)。神の支配から逃れ、自分好みの王を求めた民は、結局人の作った王の奴隷となりました(第一サムエル8章)。
救われる、ということは、自分を王としてきた生き方から180度方向変換をして、イエスさまを私の王として生きることです。救われた者として生きるということは「自分を王とする罪」を振り捨てて、イエスさまこそ私の王ですと告白しつつ生きることなのです。そこにこそまことの自由、そして喜びと感謝を捧げつつ生きる豊かな人生があるのです。
◎ろばに乗る柔和な王キリスト
私たちが王とするお方は「柔和な方で、ろばに乗って」来られます。「荷ろばの子である、子ろばに乗って」来られます。この「荷ろばの子である、子ろばに乗って」は、ある聖書では「くびきを負うろばの子に乗って」と訳されていました。ろばとは、当時の世界において愚鈍な、愚かな存在の代名詞でした。それと同時に、荷を背負わせられたならば、愚鈍なまでにいつまでも担い続けているような動物でもあったと言われます。
私たちが王と仰ぐお方は、軍馬に乗って力任せにすべてを支配しようとするような暴君ではありません。ろばを、ろばの子をお選びになるお方です。柔和なお方です。柔らかいお方なのです。
柔和な人、柔らかい人、というのは、共に生きる者にとってはなんと慰めに満ちた存在でしょう。傷ついたところを優しく包み込むような柔らかさ。疲れた体をそっと支えてくれるあたたかさ。日照りの中に火照った体を休める日陰、そして渇いた喉を潤す一杯の水のような存在。どこまでも受け止めてくれるような奥行きの深さ。人を支配しコントロールしようとするところが何もなく、ただ静かに耳を傾けていてくれる。そのような柔和な王。それがキリストなのです。私たちはそのようなお方を王とさせていただいたのです。
柔和にエルサレムに入城されるイエスさまを群衆は「ホサナ(今、救ってください)」と叫び歓迎しました。しかしこの同じ群衆が数日後にはイエスさまを「十字架につけろ」(マタイ27・22)と叫びます。宗教指導者たちに扇動されたとはいえ、移り気で無責任な人間の罪が主の十字架を前に明らかになります。
イエスさまはこのような群衆であることをご存じだったでしょう。そうであれば、ホサナと叫ぶ群衆に一言おっしゃってもよかったのかもしれません。あなた方は、まもなく私を十字架につけろと叫ぶのですよ、と。しかしイエスさまはそうはされませんでした。驚くべきことにこの群衆の歓迎をお受けになられたのです。まもなく自分を十字架につけようとする群衆であることを誰よりも深く知りつつ、その「歓迎」をひたすらお受けになられたのです。ここに全人類の罪を背負おうとされた、まことに柔和な王のお姿があります。私たちの王の姿です。
ろばを連れてきた弟子たちは、誰に言われるわけでもなく、自分たちの上着をろばの上に掛けました。非常に多くの群衆は上着を道に敷きました。木の枝(ヨハネの福音書では「なつめ椰子の枝」、以前の訳では「しゅろの枝」)を切って道に敷く者もいました。上着を脱ぎ、下着一枚(これは普段着という意味ですが)になって、イエスさまの道、十字架への道を備えました。やがてイエスさまを裏切る弟子たち、十字架につけろと叫ぶ群衆を思うと複雑です。しかしこの時彼らなりに主イエスさまのお座りになる場所、お通りになる道を整えました。
今あらためて、私たちはこのまことに柔和なお方を、私の王としてお迎えしたいと思います。私たちなりに後生大事にしていた上着を脱いで、イエスさまのお座りになる場所を備えたい、そうして主にお従いしたいと思います。
●祈り
自分が王となる道にこそ、自由と喜びがあると信じて歩んでまいりました。しかしそこには自己中心がもたらす不自由さがあっただけでした。十字架におかかり下さり、復活して今もともにいてくださるあなたこそ真実に私を解放してくださるまことの王です。あなたが王となってください。そうして喜びと感謝の人生へと送り出してください。私のなかにあなたの王座を備え、あなたの歩まれる道を備えさせてください。