主日礼拝説教 2023年7月2日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年7月2日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書20章29~34節
  • 説教題:叫び続ける信仰

●説教要旨

●みことば

主よ、目を開けていただきたいのです。

マタイの福音書20章33節

●みことばの一滴

◎信仰の目が開かれなければならない私

イエスさまは十字架に架かるためにエルサレムに向かわれます。その途上エリコをお通りになりました。エリコはエルサレムの北東約20キロにある旧約聖書の時代からよく知られた町でした。そこで二人の盲人がイエスさまに目を癒していただきました。マルコの福音書10章46節以降ではこの盲人を「テマイの子バルテマイ」と紹介され、ルカの福音書18章35節以降では、その盲人が一人であるように記されています。しかしマタイでは二人であったとあり、また別の記事ではありますがマタイ9章27節以降に登場する盲人も二名とあるので、どうもマタイは盲人の癒しについて二名ということを強調したいように思えてきます。目の見えない苦しみの中にあって、しかしその苦しみを一人で抱えるのではなく、ともに分かち合う仲間が彼らにはいた、と。そこに教会の姿を発見してもよいのかもしれません。
彼らは、イエスさまがお通りになると聞くと、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びました。群衆は黙らせようとたしなめました。他の訳では叱りつけたとあります。しかし彼らはますます叫びました。その叫び声に、イエスさまは立ち止まられました。そして彼らを呼んで問われます。「わたしに、何をしてほしいのですか」。
彼らは答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです」。

少し前に、ゼベダイの二人の息子がその母に連れられてイエスさまに願いました。その時も、イエスさまは問われました。「何を願うのですか」。彼らは自分たちを天の御国でイエスさまの左右に座らせてほしいとお言葉を下さい、と願いました。この願いと、今回の盲人たちの願いは、あまりにも対照的です。
盲人たちは、あわれんでほしい、と願いました。自分たちはあわれまれなければならない者である、と告白したのです。あわれんでいただけるのに当然の者であると高慢になったのではありません。神さまのあわれみなくしては生きていくことができない、物乞いのような、奴隷のような者であるとを告白したのです。
イエスさまからの問いに彼らは、目を開けてほしい、と願いました。自分たちは目が見えない、見えていないと告白しました。肉体の目のことと同時に、それ以上のことが語られているように思います。私たちは見えているでしょうか。
ヨハネの福音書9章の盲人の癒しのところに次のような言葉があります。

パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」
(ヨハネ9・40、41)

自分たちはあわれまれなければならない者である、それは見えていない者だからだ、と自らの姿を正直に告白した二人の盲人。この二人に救いの時がやって来ます。

◎深くあわれんでくださる主

彼らは叱りつけられても叫ぶことをやめませんでした。イエスさまをおいて他に自分たちの目を開くことのできるお方はおられないと信じたのです。イエスさまは、このエリコを通過点としてエルサレムに進んでおられます。この時を逃してはチャンスはありません。なんとしてでもこの時あわれみをいただかなければならないと心に定めていました。

イエスさまはそのような彼らを、深くあわれんでくださいました。そして彼らの目に触れてくださいました。たちどころに彼らは見えるようになりました。見えるようになって最初に何を見たでしょう。イエスさまのお顔だったでしょうか。お互いの顔だったかもしれません。イエスさまは「目が健やかなら全身が明るくなる」(マタイ6・22)と言われました。目が開かれたという喜びはこれからの人生そのものを開いたことでしょう。

「彼らは見えるようになり、イエスについて行った」。他の訳では「従った」とあります。見えるようになったかつての盲人は、イエスさまの弟子となってイエスさまについて行きました。

私は目が見えない者である。自分の力によっては自分の目を開くことができない。自分の目は開いていただかなければならない。目が開かれるためには神さまにあわれんでいただかなければならない。神さまは私の目を開いてくださる唯一のお方である。そのような信仰が神さまへの叫びとなり祈りとなる。そうしてひとたび開かれ見えるようになったとき、見えるようにしていただいた神さまに導かれていく者となる、弟子となる。目が本当に開かれたかどうかは、この「弟子となる」ということにおいて明らかとなるのです。
見えるようになったから、これからは自分の力で歩んでいく、ということではなく、見えるようになったからこそ、見えるようにしていただいたお方を一心に見上げて、そのお方の後をついていく。イエスさまを主と仰いで、自分の人生をお委ねしながら、イエスさまの後をついていく。それが本当に見える者となった人間の姿なのです。

●祈り

主よ、あわれんでください。見えると言い張る罪を赦してください。見えるようにしてください。主イエスさまご自身を見上げる者としてください。主の後をついて行く者としてください。


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