- 聖書箇所:2023年6月25日(日)
- 説教題:テモテへの手紙第一1章3~7節
- 説教題:愛を目標として
説教音声
暗唱聖句
この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。
テモテへの手紙第一1章5節
説教要旨
目標は愛
パウロは、マケドニアに行く時にテモテに言ったことを、改めて手紙の最初に記しています。それは、「エペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように」命じることでした。
テモテが留まったエペソでは、かつてパウロも福音を宣べ伝えました。使徒の働き20章によれば、パウロはエペソの教会で神様のご計画のすべてを余すところなく伝えたと言っています。パウロは夜も昼も長老たちの一人一人を訓戒しました。しかし、そのエペソの教会で、「違った教え」が説かれていたわけです。
「違った教え」と言っても、聖書とまったく関係のない教えが、どこかから持ってこられたのではありません。「違った教え」を説いた「ある人たち」は、「律法の教師でありたい」と望む人々でした。彼らの教えは神様の言葉である律法が土台でした。しかし、彼らは、その律法によって、「違った教え」を説き、「果てしない作り話」と「系図」に心を寄せていたということです。そして、その彼らの教えは、「論議を引き起こす」だけのことでした。「神に委ねられた信仰の務めを実現させる」ことにはつながりませんでした。
「ある人たち」が神様の言葉である律法から「違った教え」を説くようになったのは、どうしてでしょうか。
パウロは、テモテに与えた命令の目指す目標が愛であることを確認しながら、「ある人たち」が見失っているものを指摘しています。それは「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」です。「これらのもの」を見失って、彼らは「むなしい議論」に迷い込んでいるということです。
ちなみに、「議論」というのは、「論議」と似たような言葉で、どちらも「互いに意見を述べて論じ合う」という意味があります。ただ、どちらかと言えば、議論には「意見を戦わせる」というニュアンスが含まれてくるようです。議論の目標は相手を論破することにあるということです。しかし、そのような議論はむなしいものです。なぜなら、議論で相手を論破したところで、そこから生まれてくるものは何もないからです。そして、議論で相手を論破するのは、愛することと正反対のことです。
もちろん、すべての議論がむなしいわけではないでしょう。意味のある議論もたくさんあります。そして、その議論が意味のあるものであるかどうかは、もしかしたら、そこに愛があるかどうかということと関わりがあるのかも知れません。
愛は論破を目指しません。愛は仕えることを目指します。相手を建て上げることを目指します。そして、その愛が目標とされているなら、議論は意味のあるものになるのではないでしょうか。愛に基づいた議論は教会を成熟へと導くことでしょう。
愛はきよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる
繰り返しになりますが、目標は愛です。愛することです。そして、パウロによれば、その愛は「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」から生まれます。
私たちには「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」があるでしょうか。「ある」と言える者でありたいですが、私たちは「きよい心」も「健全な良心」も「偽りのない信仰」もないことを認めざるを得ません。私たちには愛がありません。
そうすると、どういうことになるのでしょうか。「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」のない私たちにとって、目標が愛であるというのは何の意味もないことになるのでしょうか。あるいは、「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」を必死のパッチで手に入れることが求められているということでしょうか。
私たちは貧しい罪人です。しかし、だからこそ、神様は、その罪人の私たちを救うために、御子イエス様を遣わしてくださいました。「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」を持つ唯一の方、イエス様が、罪人の私たちを愛するが故に、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。私たちにできることは、その十字架の愛を受け取り続けることだけです。「罪人の自分が赦されて新しく生きるために、イエス様が十字架にかかってくださった」、その恵みの事実を信じて受け取り続けることだけです。「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛」を目標として生きる新しい歩みは、いつもイエス様の十字架の愛を信じて受け取る所からスタートします。大切なことはイエス様の愛の中に生かされることです。
祈り
愛のない罪人の私たちを救い出すために、御子イエス様が来てくださったことを感謝します。いつもイエス様の愛を受け取りながら、愛する者として生きることができるように導いてください。