主日礼拝説教 2023年6月11日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年6月11日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書20章1~16節
  • 説教題:ねたみから自由に

●説教音声

●みことば

私はこの最後の人にも、
あなたと同じだけ与えたいのです

マタイの福音書20章14節

●みことばの一滴

◎私はどこにいるだろう

天の御国、すなわち神さまのご支配とは、この「ぶどう園の主人」のようなものである、とイエスさまはたとえ話を話されました。
ぶどう園の主人は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけて行きました。そして労働者たちを一日1デナリの契約でぶどう園に雇用しました。主人はまた9時ごろ出かけて行き、仕事がなく何もしないでいる人たちを雇い入れます。さらに12時、3時と出かけて行って次々と労働者を雇います。もうそろそろ仕事を終える時間であろう5時にも出かけて行き、そこで何もしないで立っているだけの人を見つけると、その人たちを雇用しました。
さて夕刻になり仕事も終わりました。主人は監督に、最後に来た者たちから初めて最初に来た者たちまで賃金を支払いなさいと命じました。5時ごろに雇われた者に、1デナリが支払われました。それを見た最初の者たちは、自分たちはもっと多くもらえるだろうと期待したことでしょう。しかし彼らに支払われたのも同じ1デナリでした。それで彼らは不平を言いました。最後に来て少ししか働いていない者と、一日の労苦を辛抱した私たちと「同じように扱う」とはどういうことか。不公平ではないか、と。
主人は答えます。「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか」。

このたとえ話を最初に読んだとき、私はなんと聖書の神さまは心の広いお方であろうか、と喜んだものです。信仰をいただいたときは、周りの信仰者はみな先輩です。その長く信仰生活を歩んでこられた方々と、自分のような5時前に飛び込んできたような者とを、この神さまは「同じように扱う」素晴らしいお方である。なんと感謝なことかと思ったのです。
しかし、信仰生活が5年、10年と進むうちに、自分の中に何か変なプライドのようなものが生まれてきたように思います。信仰生活はときに忍耐が求められます。教会生活においては、兄弟姉妹と苦労を共にします。それは同時に祈りが聞かれることの喜びでもあり、信仰の成長でもあります。しかしそれが自分の中に変なプライドを生んでしまう。「同じように扱われる」ことをよしとしない心が生まれてしまう。前回学んだところで弟子のペテロが言った言葉を思いだします。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」(マタイ19・27)
誰よりも一所懸命に頑張ってきた、と自負する者にとっては我慢ならない不公平なお話しだ、となるでしょう。恵みの物語と聞くか、それとも不公平な物語と聞くのか。その違いは、自分自身がどこに立っているかの違いを明らかにします。まことに私たちのありようを映す鏡のようなたとえ話です。私たちはどちらに立っているのでしょうか。

◎愛の神は気前の良い神

前回の最後の聖句「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(マタイ19・30)と今回の最後の聖句「このように、後の者が先になり、先の者が後になります」(20・16)は、いずれも、順序が人間の予測通りにはいかない、ということでしょう。それが神さまのご支配の中に生きることなのです。聖書の神さまを信じて生きるということはこの、後先が人間の予想を裏切る人生に招かれた、ということなのです。
それは、気前の良い神、を信じたということです。私たちの信じる神さまは気前がよくて「この最後の人にも、あなたと同じだけ与えたい」と思っておられる神なのです。

ぶどう園の主人は最初に朝早くに出かけて労働者を雇いました。さらに次々と労働者を雇い入れます。仕事に対する労働者の適切な数だとか、労働者に支払う賃金と収入のバランスだとか一切考えていません。ひたすら人びとを雇うのです。これが、神さまのなさることなのです。
神さまはすべての人が救われることを望んでおられます。救われた人を入れる天国には限界というものがありません。そこでは、皆が等しく三位一体の神さまを礼拝し賛美を捧げます(黙示録21章)。信仰生活の長い短いも、信仰的な知識、経験も関係ありません。皆が同じように、イエスさまを長子とした神の子なのです。教会は、天国の前味を味わうところですから、神さまが気前の良いお方であることを語ります。

「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのか」と問われました。
このねたむ者に向かって主人は「友よ」と呼びかけました。神さまは、すべての人を愛しておられます。すべての者が神さまにとってかけがえのない存在であることを知るならば、この最初に雇われた者は、最後に雇われた者をねたむのではなく、自分と同じように1デナリを手にしたときに、よかったね、と喜んであげるべきだったのではないか。

使徒パウロは自らを「そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました」(第一コリント15・8)と語りました。それは無価値な者である自分にも神さまは出会ってくださったという喜びの言葉でしょう。パウロはこのときすでにいくつもの教会を開拓し、異邦人宣教の先頭に立って奉仕していました。そのパウロが、自分は5時前に雇われた者である、諸先輩方の末席をけがしているものである、ということを告白しているのです。謙遜ということではありません。これは信仰の問題です。キリスト教信仰に生きるということは、自分は5時前に雇われた者であることを見失わないことなのです。

●祈り

高慢を赦してください。あわれんでください。どうか5時前に雇い入れられた者であることを見失うことがないように助けてください。その喜びの中に生かしてください。そしてすべての人の救いを祈る者とならせてください。


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