- 主日礼拝説教:2023年5月21日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書19章13~22節
- 説教題:神の支配に生きる者
●説教音声
音声プレーヤー●みことば
子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。
マタイの福音書 19章14節
●みことばの一滴
◎叱る弟子たち
前回、イエスさまが女性をはじめ他者を大切にすることをお話しされたところを学びました。そのイエスさまのところに、今度は手を置いて祈っていただくために子どもたちが連れてこられました。すると弟子たちは、その連れてきた人たちを叱りました。なぜ弟子たちは叱ったのでしょう。
この「叱る」という言葉は、非難する、どなりつける、などという強い言葉ですが、「値段をつける」という意味の言葉が語源となっています。弟子たちは、連れてこられた子どもたちが、手を置いて祈っていただく、すなわち祝福していただくにはふさわしくない、資格がないと判断したということです。
神さまの祝福にあずかるために、ふさわしいかどうか。それだけの値打ちがあるかどうかを弟子たちは考えた。その結果、ふさわしくないと判断した。それで叱ったということです。
神さまの祝福にあずかるために、その資格があるかどうか、と考えることはそれほどおかしなことではないのかもしれません。むしろ人間はさまざまな場面でそのように考えて来たのではないでしょうか。
誠実な生き方が幸いをもたらすということもあるでしょう。他者への愛に生きる生き方が人生に喜びをもたらすということもあるでしょう。人徳のある所に多くの幸福があつまるということもあるかもしれません。
生まれたばかりの時は、生きているということだけに豊かな価値が見いだされていたのだと思います。泣いているだけで、ミルクが与えられおむつを交換してもらうことができました。しかし生活の世界が広がり、学齢期にもなると、どこか能力がはかられるということに出会っていきます。体力があるかないか、運動神経がすぐれているかいないか、物覚えがよいか悪いか、などなど。そうしてさまざまに「値踏み」がされて、それが人間そのものの価値のように考えられてしまう。社会に出ればなおさらです。有用な人材であるのかないのか。さまざまに価値判断がされてしまいます。
そのことが信仰の世界においても行われてしまうということ。いわゆる信仰の豊かさや聖書の知識、神学的知識の深さが、人生の幸いを生み出すと考えられてしまう。子どもはまだまだ理解力が足りないから、神さまの祝福に与るのはもう少し大人になってからにしましょう、という考え方があるとすれば、その根底にはこの弟子たちと変わらないものがあるのかもしれません。
◎神の支配に生きる者
このような弟子たちに向かってイエスさまは言われました。子どもたちを来させなさい。邪魔をしてはいけない。天の御国はこのような者たちのものである、と。そして子どもたちの上に手を置いて祝福してくださいました。
天の御国。それは神さまの支配ということです。神さまの支配はこのような者たちのものである。神さまのご支配の中に、まことの平安をいただいて幸いに生きるのは、このような者たちのうちに実現するのだ、と言われたのです。
「このような者たち」。いったいどのような者たちのことでしょう。
子どもは純真で無邪気であるということも言えるかもしれません。しかしここではそのようなことは語られていません。
まず子どもたちは「連れてこられた者」たちでした。自分の意思で来たのではありません。信仰を求めて、祝福にあずかろうと願ってやってきたのではないのです。もしかしたら、遊んでいる最中に、さあイエスさまが来られた、祝福していただこう、と言われ、子どもたちとしては仕方なく連れてこられたのかもしれません。遊びが中断されていやいやに連れてこられたのかもしれません。その子どもたちにイエスさまは温かい言葉をかけて下さいました。そして祝福してくださったのです。
「わたしのところに来るのを邪魔してはいけません」。連れてこられただけの子どもたちのことを「わたしのところに来る」者とイエスさまは受け止めてくださいました。自分から進んでイエスさまのところに来る者を、イエスさまは歓迎してくださいます。しかしそれだけではなく、連れてこられただけの子どもたちをもイエスさまはしっかりと受け止めてくださいます。そして天の御国はそのような子どもたちのものだといってくださいました。
私たちもどこか連れてこられた者ではないかと思います。確かに自分の意思で来ようとした部分もあるかもしれません。しかしよくよく考えてみると、全くの自分の意思だけで今日の信仰生活が成り立っているのかと、問われると、どうもそればかりではないと思うのです。人生そのものを考えてみても、この世に生まれてこようと自ら意思で生まれ出た者は誰もいません。しかし神さまは祝福してくださるお方なのです。天と地を創造されたお方が、すでに二千年前に十字架と復活の御業をなして、私たちへのご自身の愛を明らかにしてくださいました。このお方にお委ねして、このお方の全きご支配の中に生きる幸いを感謝します。
●祈り
父なる神さま。あなたは、十字架と復活の御業によって私たちへの愛を明らかにしてくださいました。その愛に生かされることの喜びを教えてください。天と地を創造されたお方に、すべてをお委ねして生きることの幸いを教えてください。