主日礼拝説教 2023年5月14日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年5月14日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書19章1~12
  • 説教題:すこやかに生きる

●説教音声

●みことば

神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。

コリント人への手紙 第一 7章15節

●みことばの一滴

◎神を試みる罪

話を終えられたイエスさまは、ガリラヤを去られ、ヨルダンの川向うを経て、ユダヤ地方へ入られました。そこでも大勢の群衆がついて来ました。イエスさまはその場で彼らを癒されました。この大勢の群衆はひたすらイエスさまに癒しを求めたということでしょう。イエスさまは、人びとの求めに応じて答え続けてくださいました。
そこにパリサイ人たちがやって来ました。そして問います。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」。

イエスさまは聖書から彼らに答えられました(創世記2章)。神さまの創造の御業はことごとく「良かった」と語られています。しかし創世記2章18節で、初めて「良くない」と語られたのが「一人でいること」でした。神さまは人間が一人でいることは「良くない」と言われたのです。それで神さまは助け手として女性を創造されました。それは女性が男性の助け手というだけではなく、男性も女性の助け手である、女性は男性がいなければ生きられない、しかし男性も女性がいなければ生きることができないのだ、ということでしょう。「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」。
このイエスさまの答えにパリサイ人たちは、モーセは離縁状を書いて離縁することを命じているが、それはどういう理由からか、と重ねて問いました。

離縁状という言葉は旧約聖書において申命記24章に出てきます。当時は一夫多妻が普通に行われていました。夫は妻が気に入らなくなると、別の妻をめとります。結果、夫は気に入らなくなった方の妻に対して扶養の義務を果たさなくなったのでしょう。妻は、扶養を受けることができず、かといって再婚の道も開かれていません。結果として生きる道を断たれてしまいました。このような夫の身勝手に対して、モーセは、ちゃんと離婚状を書きなさい。そうして女性に対して新しく生きる道を開きなさい、と語ったのです。

パリサイ人たちの「理由があれば離縁しても構わないでしょうか」という問いは、離婚の是非を問うているというよりも、女性に対する男性の権利について問いかけているようです。その問いをもってイエスさまを試そうとしました。「イエスさま。あなたも男性でしょう。今の世の中、男性には女性を自分の所有物のように扱う権利があります。あなたはそれについてどう思われますか。私たちの伝統的な男性の価値観に賛同されますか。それとも女性に味方されるのですか」ということかもしれません。

それに対してイエスさまは、淫らな行い、すなわち姦淫以外の理由で離縁してはならない、それは夫みずからが姦淫を犯すことだ、と、あくまで女性の立場を守ろうとされます。このイエスさまの言葉に、こんどは弟子たちが反発します。「そんなことなら結婚しないほうがましだ」と。弟子たちも、当時の男性優位の価値観、女性を男性の所有物のように扱おうとする考え方を持っていたようです。

離縁の是非を問いつつ自分たちの伝統的な価値観を大切にするかどうかでイエスさまを試そうとしたパリサイ人。イエスさまは、そもそも聖書が語っていることは何なのかを明らかにされ、そして女性も男性もお互いを本当に大切にする生き方を明らかにしてくださいました。

◎御心を受け入れて生きるすこやかさ

「そんなことなら結婚しないほうがましだ」。弟子たちが驚きをもって語ったこの言葉を受けてイエスさまは、独身者について話されました。
その言葉は、だれもが受け入れられるわけではない、許された人だけができることである、生まれつき独身者として定められた人、独身者にさせられた人、天の御国のために自分から独身者になった人がいる、それを受け入れることができるならば、受け入れなさい、と言われました。
ここに「受け入れられる」という言葉が出てきました。それに対して8節には「頑(かたくな)な」という言葉がありました。パリサイ人をはじめ当時の男性たちの生き方は自分の身勝手な主張に頑なにこだわる生き方であると言われたのです。それに対して「受け入れる」生き方がある、と言われました。「それが許されている人だけができる」。この許されている人という言葉は、共同訳では、「恵まれた者」と訳されていました。
そんなことなら結婚しないほうがましだ、などと自分で決めなくてもよいではないか、結婚するか、独身で生きるか、いずれも神さまがそのように導いて下さる、どのような生き方であろうとも、神さまからの恵みとして受け止めればよい、そのように生きて行けばよい、そして女性であれ、男性であれ、お互いを助け手として尊重しあいながら生きて行けばよいと言われたのです。

前回、多くの負債を赦していただいたにも関わらず、わずかの負債を負う友を赦すことのできなかった家来の個所を学びました。お互いがそれぞれに、自分は多くの負債を赦していただいたのだ、ということを忘れないならば、ともに生きることができる、ということでしょう。また自分の生き方が、神さまから恵みとして与えられたかけがえのない生き方であると受け止めることができるならば、誰かと比較することから自由にされて平安をもって自分自身を生きることができるでしょう。その平安は、またともに生きる人たちと平和に生きる道を築ていくのだと思います。
私がどのように生きていくのがよいのか。イエスさまは誰よりもご存じです。イエスさまの御心を受け入れて生きることこそ、すこやかな命に生きる道なのです。

●祈り

互いに相手をかけがえのない大切な存在であると受け止めることができますように。そのために、自分自身の人生が、あなたさまからの恵みによるものであることを知ることができますように、信仰を増し加えて下さい。


投稿日

カテゴリー: