主日礼拝説教 2023年5月7日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年5月7日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書18章21~35
  • 説教題:ゆるすこと、ゆるされること

●説教音声

●みことば

あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。

マタイの福音書18章35節

●みことばの一滴

◎はかり知れないほどの負債

弟子ペテロが「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」とイエスさまに尋ねました。「7」は完全数なので、ペテロとしては精いっぱいの赦しの心を語ったのでしょう。それに対してイエスさまは、「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです」と答えられました。7を70倍ですから、490回赦しなさい、491回目からは赦さなくてもよろしい、と言われたわけではないでしょう。完全数のかけ合わせですから、無限に赦しなさい、赦すことに回数は関係ない、とにかく赦しに生きていきなさい、と言われたことになります。
天国のカギをいただいた教会は、この地にあって唯一赦しの言葉を語るところである、と前回も学びました。もし教会が赦しの言葉を語らなかったら、もはやこの地上には赦しが語られる場所がなくなってしまう。赦しの言葉を語らなくなったら教会が教会でなくなってしまう、ということです。
しっかりとゆるしの言葉を語りたいと思います。

さて、このようにお答えになられたイエスさまは、そこで一つのたとえ話をされました。「仲間を赦さない家来」のたとえ話です。
天の御国。すなわち神さまが支配されるところはこのようなことにたとえることができる、と始まります。王が家来たちと清算をしたいと思いました。1万タラントの負債のある者が王のもとに連れてこられた。1万タラントとは、国家予算にも匹敵するほどのはかり知れない大きな負債です。彼はひれ伏して返済の猶予を願いしました。すると驚くことに王は猶予に答えるのではなく、負債を免除してやります。
そのすぐ後でのこと。この家来が自分に百デナリの借りのある仲間に出会います。百デナリはほんのわずかな金額です。家来は、その人を捕まえて首を絞め返済を迫ります。しかしこの借りのある仲間は、猶予を願いました。彼の語る言葉は、先ほど自分が王に語った言葉と同じです。しかしこの家来は承知しません。引いて行って負債を返すまで牢に放り込みました。
この事の成り行きを見て、非常に心を痛めた仲間たちが、一部始終を主君、すなわち王に話しました。すると主君は呼びつけて言いました。「悪い家来だ」「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」。

自分がどれだけ多くの負債を赦されたかを忘れることがなかったならば、赦しに生きることができたのではないか。
赦しに生きようと努力する前に、まず自分が誰よりも多くの負債を赦された者なのだ、ということを忘れない、ということをイエスさまは語られました。

◎心から赦す者となる自由

「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたにこのようになさる」。

「心から赦す」ということは、心と赦しの行為、あるいは言葉とは一つである、ということです。そして心から赦す、ということは、自分が赦された者である、ということと深く結びついている、ということでしょう。赦されたという喜びに真実に生きているならば、おのずと心から赦すという生き方が生まれるのだと思います。神さまは私たちをそのように造ってくださったのだと思います。
赦しには「自由にする」という意味があります。自分の心の中に閉じ込めさばき続けることから、自由にすることです。赦せない、ということは、相手を縛っていることではなく自分自身を縛っていることなのです。赦すことは自分自身を自由にすることでもあるのです。

イエスさまのたとえ話で、この「仲間を赦さない家来」が忘れてしまったことは、二つです。
一つは、自分がどれだけ大きな負債を負っていたのか、ということ。パウロは自らのことを「罪人のかしら」(第一テモテ1・15)と告白しました。すべての人類の中で自分が一番の罪びとであると告白したのです。これはすべての人に当てはめるべき言葉です。
家来が忘れてしまっていたもう一つのことは、その大きな負債が一方的な恵みによって赦された、ということです。自分の行いや自分の何かによってではなく、ただ一方的な恵みによって赦していただいた、ということ。そのことを忘れてしまったのです。
この二つのことが忘れられてしまうと、心からの赦しに生きることができなくなってしまうのです。それは信仰に生きる喜びがなくなってしまっているということでもあります。信仰の喜びに生き続けるために、この二つのことは忘れてはならないことなのです。
私たちは礼拝においてこの二つのことを学びます。礼拝では自らの罪を告白し懺悔し悔い改めます。自らが罪びとのかしらであることを告白します。新しくイエスさまから赦しの言葉をいただきます。悔い改めの無い「許し」ではなく、悔い改めに基づく「赦し」の言葉をいただきます。この真実の赦しをいただいたものこそ、信仰の喜びに生きる者となるのです。
天の父は、一人の小さな存在、失われた存在をなんとか見出したいとあつく願っていてくださいます。自分はどれだけ愛されている存在であるのか、を私たちが味わい知ることを神さまは願っていてくださるのです。

●祈り

父なる神さま。赦しに生きることができないことをゆるしてください。どれだけ多くの罪を赦してくださったかを忘れることがないように守ってください。その喜びのうちに、赦しに生きる者としてください。


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