- 主日礼拝説教:2023年4月30日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書18章15~20
- 説教題:罪に押しつぶされないために
●説教音声
●みことば
二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。
マタイの福音書18章20節
●みことばの一滴
◎教会における罪の取り扱い方
教会で罪を犯している人がいる。その時教会はどのように対応するのか。イエスさまは、「二人だけのところで指摘しなさい」と言われました。この指摘しなさい、という言葉は、忠告をする、とがめる、糾(ただ)す、つまり糾弾する、という意味を持っています。罪を犯している人を矯正する、罪を犯さない人にする、という意味です。
罪を犯している人を見て見ぬふりをしなさい、というのではまったくありません。時が解決するから、今しばらく様子を見よう、というのではないのです。世間ではそのような対応がなされるのかもしれません。しかし教会ではそうではない。しっかりと指摘せよ、というのです。余計なお世話だと言われても、教会では、かつて預言者ナタンがダビデに忠告したように(第二サムエル12章)、「行って」「指摘する」のです。それがキリスト教会の対応の仕方です。
「あなたに対して罪を犯しているなら」。たとえ自分には関係のない罪に見えたとしても、教会に生きる仲間が罪を犯しているということはやはり自分に対しての罪である、ということです。だからキリスト教会は罪を見過ごしにしません。
「二人だけのところで」とイエスさまは言われました。罪を犯している人が悔い改めやすくするために、あまり公にしないで二人っきりのところで忠告しなさい、と理解することもできるでしょう。しかしイエスさまは「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいる」(20節)と言われました。すなわち、罪を犯している人とそれを忠告しに行った人、そのたった二人だけのところにもイエスさまがおられる。イエスさまがおられるということは教会全体が臨んでいる。たった二人だけのとこであってもそこは大法廷の真ん中なのです。だから軽々しく考えてはなりません。秘密裏ではなく公け以上の場所です。もし二人だけの場所だから、と軽々しく扱うとすれば、それは罪を軽々しく扱うことであり、真実の福音を語る教会とは言えないのです。
もし聞き入れないならばほかに一人か二人を連れて行きなさい。それでも聞き入れないならば、教会に伝えなさい。本当にイエスさまが臨んでおられるということをその人にも分かるようにして忠告しなさい、と続きます。徹底して罪をただそうとするのです。
それでも聞き入れないならば、異邦人か取税人のように扱いなさい、と主は言われました。教会はこの言葉を教会戒規における「陪餐停止」の根拠にしてきました。
これは一見厳しいように読めますが、ある先生は、これはイエスさまに最も近いところに置くということである、と言われました。結局教会に集う自分たちの手におえないので、イエスさまにゆだねます、ということなのだと思います。自分たちの手におえないにもかかわらず何とかしようというのは、傲慢なことなのかもしれません。
◎ひとりを救うために
なぜ教会では罪を見過ごしにしないのでしょうか。それは教会は神さまから神さまの権威を託されているからです。教会が地上でつなぐことは天でもつながれるのだ。二人がどんなことでも地上で心を一つ(シンフォニー)して祈るなら、神さまはそれをかなえてくださる。どんなに深い罪であっても、悔い改めるならば、「あなたは、自分の兄弟を得たことになる」(15)のです。
自分の兄弟を得るというのは、単に自分との人間関係が回復するということではありません。罪を犯している者の救いに関わることである、というのです。
今日は交読文で詩篇32編を読みました。
「私が黙っていたとき私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。・・・私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを主に告白しよう』と。するとあなたは私の罪のとがめを 赦してくださいました。」
(詩篇32編3~4)
イエスさまは、天の御国で一番偉いものとして小さい子どもを示されました。その小さい子どもの一人をつまづかせてはいけない、軽んじてはいけないといわれ、もし一人でも迷い出たならば、何をおいてもその一人を救い出す、と言われました。救い出さなければならない小さい者。ここでは罪を犯している者のことです。罪の中にある者こそ、苦しみの中にあるのです。「行って」「指摘する」。それが神さまから赦しの権威を託されている教会の使命であり、一人の人を軽んじない、大切にする、迷い出た罪びとを教会に連れ戻す教会の在り方なのです。
●祈り
罪を犯す私たちです。罪があるにもかかわらず黙していたときの苦しみ。その苦しみから救うために、イエスさまは十字架にかかりよみがえってくださいました。あなたからの忠告の言葉を聞き、悔い改めて、平安の中に生きることができるように助けてください。また罪の中にある友が悔い改めて新しく生きることができるように導いてください。