牧会ずいそう 週報2023年4月23日号
2023年04月19日(水)
聖書愛読より 「神の派遣」 第一サムエル16・1~13
主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(第一サムエル16・7)
主は、うわべではなく心をご覧になられます。外見的にどんなに美しく見えても、その心はどうであるのか。心の中には何が潜んでいるのか。神さまはそこをご覧になるのです。
しかしそうして選ばれたダビデのことを聖書は「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」(12)と語ります。ダビデは外見的に素晴らしい人物だったのです。外見はどうであれ、とにかく心をご覧になられた、ということなのでしょうか。
ではダビデの心はどうであったのでしょう。確かに素晴らしい人物であることがこののちの記述で明らかにされます。しかし同時にダビデの心にも重大な罪性があることを聖書は隠さずに語ります(第2サムエル11章)。もちろん罪が指摘されると、ダビデは心から悔い改めるのですから、ダビデの素晴らしさは罪を犯さない、という素晴らしさではなく、罪を悔い改めることのできる素晴らしさである、ということができるのだと思います。
それはさておき主は心を見るということは一体どういうことなのでしょうか。ある先生はこの個所を原文に忠実にということで次のように訳されました。「人は自分の目によって物を見る、しかし神はご自分の心によって物を見る」。神さまはご自身の清い心、憐れみに満ちた心をもってダビデを、そして私たちをご覧になってくださる、ということでしょう。そこに「選び」と「派遣」が実現します。