- 主日礼拝説教:2023年3月26日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書18章1~9節
- 説教題:子どもたちのように
●説教音声
●みことば
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
マタイの福音書18章4節
●みことばの一滴
◎子どもっぽいことではない
神殿税のことでイエスさまとペテロが親しく語らっている姿を見たからでしょうか。弟子たちがイエスさまのところに来て「天の御国ではいったいだれが一番偉いのか」と言いました。この「偉い」という言葉は、原文では「大きい」(メガ)という言葉です。これに対してイエスさまは、「一人の子ども」を呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせ、「子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」と言われました。天の御国でだれが偉いか、と問う以前に、まず天の御国に入ること自体、子どもたちのようでなければならない、と言われたのです。
子どもだからといって、無邪気で野心がなく、ことごとく善に満ちているというわけではないでしょう。むしろわがままで自分のことしか考えず、やりたい放題、ということも事実なのではないでしょうか。子どものように、ということは、決して子どもっぽくてもよい、ということではありません。
子どものように、という言葉は、6節以降では「この小さい者たち」、原文では「ミクロ」と言い換えられています。だれが一番大きいか、と問う弟子たちに、天国は小さい者たちの者である、と言われたのです。天国に入る、天の御国に生きる、神さまのご支配の中に、平和に、平安に生きるためには「小さい」ということが大切なカギなのです。
◎悔い改める人
「向きを変えて子どものように」(3節)。子どものように、という意味は、「向きを変えること」、「心を入れ替えること」(共同訳)。すなわち悔い改めに生きることです。
イエスさまに呼び寄せられたこの子どもは、いわゆる罪の悔い改めをしていたわけではないかもしれません。しかしイエスさまが呼び寄せられると、素直にやって来ました。それまでの自分の道をストップして、イエスさまの招きに応えたのです。
向きを変える、ということは、そう簡単にできることではありません。大人であればなおさらです。手の中にあるものが大きければ大きいほど、むずかしいことなのではないでしょうか。それまでの自分の歩みをストップする。自分の考え方や、自分の在り方、自分の大切にしてきたもの、プライド、などなど。すべてわきにおいて、イエスさまのお声に従う。子どものような生き方とは、このように常に悔い改めに生きることができる、ということなのです。
子どもっぽい生き方では、これができません。子どもっぽい生き方は、自分の思いのままに突っ走ってしまい、向きを変えることができません。このような生き方は、常に自分の正しさを自分で証明しなければならない生き方となってしまい、そこには平安がないのです。
人間はみな裸でこの世に生まれてきました。何も持たずに生まれてきたのです。今現在どんなに大きなものを手にしていたとしても、最初は何も手にしていませんでした。その時点の自分に立ち戻ってみてはどうでしょうか。子どもの時を思い起こすのです。文字通り子ども時代に立ち戻るのです。
静かな心になって自分の原点に立ち返ること。天の御国に入ること、生きることとは、そのようなことなのではないでしょうか。
◎自分は偉くないことをわきまえる人
「子どものように自分を低くする人」。子どものように、という意味は、自分を低くすることができる、自分は小さな存在であるということをわきまえる、ということです。
天の御国にはいる手段として、謙遜の徳を積み上げて生きようとする、ということではありません。この呼び寄せられた子どもは、天の御国に入るために自分を低く見せよう、謙遜しようなどとは思っていなかったでしょう。ただイエスさまの招きに素直にやって来ただけでしょう。そのこと自体に、「自分を低くする」ということが現れている、ということではないでしょうか。
自分の意思に先立ってイエスさまの招きを聞こうとする。自分を低くして、イエスさまを高く置き、イエスさまのお心を優先しようとする。子どものような生き方とは、このように自分は偉くない、小さな者である、ということをわきまえているということです。
子どもっぽい生き方では、このようなことができません。むしろ自分こそ賢い、偉い、と思っているのです。自分が偉くない、大きくない、ということをわきまえられず、自分の思いのままにすべてをコントロールしようとします。このような生き方に、神さまが与えてくださる平安はありません。
私たちが人間である、ということは、限界があり弱さがある、ということです。その弱さや限界を認めていること。足りなさや間違いを持っている者であることをわきまえていること。子どものようである、ということは、このわきまえを持っている、ということです。冷静に自分自身を見つめることができる、ということです。
「悔い改める」「自分は偉くないことをわきまえる」。このような信仰の生き方こそ、天の御国に入る道を私たちに開きます。天の御国、それはまた神さまのご支配の中に生きることです。平和に、平安に生きることです。それは子どもっぽい生き方ではなく、子どものような生き方によって実現するのです。
●祈り
主よ。子どもように生きることができますように。悔い改めに生きることができますように。自分は偉くない、大きくないということをわきまえることができますように、助けてください。