主日礼拝説教 2023年3月19日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年3月19日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書17章22~27節
  • 説教題:献げる主イエス

●説教音声

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●みことば

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。

コリント人への手紙第一10章33節

●みことばの一滴

◎神によって人びとに「渡される」主イエス

彼ら、すなわち弟子たちが集まっていたときに、イエスさまは再び自らが十字架にかかりそして復活すると語られました。すでに16章21節でも語られたことです。そしてこののち20章17~19節でも語られます。イエスさまが地上に降ってきてくださった目的はこの十字架と復活にあります。
「渡される」。マタイ20章18節では「引き渡される」。いずれも聖餐式にて朗読される第一コリント11章23節の「渡される」と同じ言葉です。イエスさまは人びとに渡されることによって、私たちの救いを実現してくださいました。
イエスさまは、自分からは何もできない状態の中に身を置かれ、ただ為されるままに、十字架と復活に進んで行かれました。イエスさまは全能の神さまです。神さまにとって何一つ不可能なことはありません。何でもできるお方が、何にもできないところに身を置いてくださいました。全能者が、全くの無力と弱さの中に身を置かれることによって、私たちの救いは実現されたのです。
人の悪意に為すすべもなく身を委ねるしかなった、というのではありません。イエスさまを人びとに「渡される」のは、父なる神さまのみこころでした。イエスさまは自らが人びとに「渡される」ことが父なる神さまのみこころであることをよくご存じでした。イエスさまは、神さまによって「渡され」てくださったのです。

◎あの人たちをつまずかせないために

この大切な教えを語られた後にカペナウムでの出来事が続きます。ガリラヤ湖畔の町カペナウム。そこはイエスさまがガリラヤ伝道の拠点とされた場所で、ペテロの家があったと伝えられます。弟子たちがこのカペナウムに着いたとき、「神殿税」を集める人がペテロに近寄ってきて問いました。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか?」。イエスさまが神殿税を納めないのはなぜか、と問うたのではありません。イエスさまは、納めない、と公言しておられたわけではないでしょう。しかし彼らはこのように問うたのです。そこでペテロとしては思わず「納めます」と言ってしまいました。
このペテロの気持ちはよく分かります。キリスト者として新しく生き始めるとさまざまな変化が生まれます。異教との関わり、昔からの風習や地域の行事、因習的なものなどをことごとく再考するようになります。当然やめることになったものもたくさんあります。しかしどうでもよいことまで、キリスト者である、ということでやめようとしたこともあるでしょう。そんな姿が周りの人にさまざまな誤解や憶測を生み出し、やはりキリスト者になればこういうことはしないのですね、というようなことを言われることも起こって来ます。そんな時に、そうなのです、しないのです、と答えることもあるでしょう。しかし逆に、キリスト者といえども皆さんと変わりがないのですよ、ということを強調したいがために、「いいえ、やります!」と変に力を入れて言い張ってしまったこともあるのではないでしょうか。
さて、そんなペテロが家に入って来ると、そこにイエスさまがおられました。そしてイエスさまのほうから先にペテロに言われました。「シモン、あなたはどう思いますか・・・」(25節~)。イエスさまは、もしわたしがまことの王であり、あなたがた弟子たちはその王の子どもたちであるならば、税や貢ぎ物は納めなくてもよいのではないか。それが道理ではないだろうか、と言われたのです。
それが道理であれば、ここでイエスさまはペテロに「まことの王であるイエスさまは、神殿税を納めることをなさいません。その子である私たちも納めません」と税を集める人に言いに行かせればよかったのではないかと思いますが、イエスさまつづいてこう言われました。「しかし、あの人たちをつまずかせないために・・・」。そういって一つの奇跡を行って下さり、ペテロに神殿税を納めさせられました。
道理は確かにこうである、しかし今目の前にいる人たちをつまずかせないために、あえてその道理に反することをしよう、あるいは道理を越えたことをしよう、とイエスさまは言われたのです。ここにイエスさまというお方がどういうお方であるのか、聖書の語る福音、キリスト教会が宣べ伝えようとしてきた福音とは一体なんであるのかが豊かに語られているのではないでしょうか。

パウロはコリント人への手紙の中で次のように語っています。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。」(コリント人への手紙第一10章31~33節)

この個所は偶像に献げられた肉を食するか否かについてのパウロのすすめが書かれているところです。キリスト者は、神さまの栄光を現すために生かされている、それはすべての人につまずきを与えないことである、つまずきを与えないということは、保身のために気兼ねをしたり忖度をすることではない、自分の利益ではなく多くの人びとの利益を求めることなのだ、そうしてすべての人を喜ばせることなのだ、とパウロは語りました。
日々十字架を負ってわたしに従いなさい、とイエスさまは、言われましたが、このようなつまずきを与えない生き方のためにも私たちは十字架を負うのではないだろうか、と思います。

●祈り

イエスさまは、自らの利益を求めることなく、父なる神さまの御手に渡されてくださいました。その愛を感謝します。私たちも、神さまのご栄光を現わすことと、すべての人の喜びとが一つとなるような信仰の生き方を得させてください。


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