- 主日礼拝説教:2023年2月19日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書16章24~28節
- 説教題:いのちを救う道
●説教音声
●みことば
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。
マタイの福音書16章26節
●みことばの一滴
◎いのちを救う道
「自分を捨て」「わたしのためにいのちを失う」という言葉から、どこか自分自身のいのちを後回しにする、犠牲にすることをイエスさまは勧めておられるように読んでしまいますが、26節に「たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょう」と語っておられるので、決していのちを粗末にせよと言っておられるのではありません。自分のいのちを失わない生き方、損なわない生き方、本当に得な生き方をイエスさまは教えていてくださるのです。「全世界を手に入れても」というのですから、自分のいのちは全世界よりも重たいものだ、大切なものだ、と語って下さったのです。
全世界よりも重たい自分のいのちを損なわないで生きる、本当に得な生き方をする。そのために、私たちはどのように生きればよいのでしょうか。イエスさまは、「自分を捨てる」「イエスさまのためにいのちを失う」。そのような生き方によってこそ、自分のいのちを損なわない、本当に得な生き方ができるのだ、と言われました。
全世界よりも大切ないのちを大切に扱うために、私たちはそのいのちを自分の手の中に、しっかりと置こうとします。しかしその自分という存在は、本当に自分を大切にすることができるのでしょうか。自分の願い通り、思い通りに自分の人生を生きようとして果たして、本当に自分を大切にすることになるのでしょうか。
私のことを一番よく知っていて下さるのは、全世界をお造りになられ、今もそのすべてを御手の中に置いておられるイエスさまだけです。私以上に私のことを知っていて下さる。それがイエスさまです。そのイエスさまに、私のすべてをお委ねすること。そうしてこそ、全世界よりも重たい私の大切ないのちをほんとうに大切に生きることができるのです。
◎自分のいのちを生きる
「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。」(27)
イエスさまのために生きる、ということによって、自分のいのちを大切に生きることができるのですが、そのような生き方が果たしてできたかどうかは、イエスさまがご再臨されるときに明らかにされます。最終的な帳尻合わせの時がやって来ると言われるのです。それはさばきの時ですが、信仰者にとっては恐怖すべき時ではなく「報いを受ける」時です。
イエスさまのために生きるということは、決してこの世界において評価されることばかりではありません。この世の価値基準から離れてしまっていることもあるでしょう。あるいはどんなにイエスさまのために生きたとしても、それが明るみに出ることばかりでもありません。誰にも知られないところで、イエスさまのために生きている人たちはたくさんおられます。隣人への優しい気遣いや、あたたかな言葉ということも、この世界から評価されることはないかもしれません。しかしそのような小さなことも、イエスさまは確かにご覧になっていて下さるのです。
そこでさらにイエスさまは、不思議なことを言われました。ここにいる者たちの中に、再臨の時まで死なない者がいる、と。
この言葉は、復活のイエスさまと弟子のペテロとの対話の中でも語られています(ヨハネの福音書21章22節)。イエスさまが、わたしに従いなさい、とペテロに語っておられる中で、ペテロは、隣にいた弟子をさして「この人はどうなのですか」と問いました。その時イエスさまは、わたしが再臨の時まで生きるようにと彼に望んだとしても、それがあなたに何の関りがあるだろうか。「あなたは、わたしに従いなさい」と。
イエスさまのために生きる、イエスさまに従う、ということにおいては、他者と比較することは必要ないのです。人を見て、そこに立派な生き方を発見すれば、自分もそのように生きようと人まねをすることは、決して間違ったことではないと思います。しかし私には私なりのイエスさまに従う道があるのです。イエスさまはそのように私たちを招いていてくださいます。私だけの、私にだけできる主に仕える道を、主は望んでいてくださるのです。自らを主に献げて生きる道は、本当に自分らしい人生を生きる道なのです。
●祈り
自分のいのちがどれだけ大切なものであるのかを、あなたは十字架によって教えてくださいました。自分のいのちを大切に生きるために、自分のすべてをあなたに委ねることができますように。この世の評価ではなく、ただあなたの前に、自分らしく生きることができますように。