聖書愛読より 「神の愛」 第一コリント12・31b~13・13

牧会ずいそう 週報2023年2月19日号

聖書愛読より 「神の愛」 第一コリント12・31b~13・13

「私は今、はるかにまさる道を示しましょう。たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。・・・こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(第一コリント12・12b~13・13)

 「異言」という言葉を聖書に見つけたときに、いったいこれは何だろうか、と大いに疑問を持ったものです。使徒の働き2章には、弟子たちが聖霊に満たされて「他国の言葉」で話したとありますが、それは他国の言葉であっていわゆる異言ではないでしょう。使徒の働きの他の箇所には2度登場します(10章46節も10章6節)が、いずれも異邦人宣教という特殊事情の中に起こった特殊な出来事であって、一般的な信仰生活に適応することは難しいでしょう。第一コリント12章から14章では、パウロは異言よりも大切にすべきことがあると語っています。聖書にはその他の箇所に異言という言葉を発見することができません。数回登場するだけのこの「異言」という言葉を、ことさら強調するとすれば、聖書の使信を読み誤ってしまうのではないかとも思います。パウロは、いくら異言を話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じだ、と言いました。人間は愛なくして異言を語ることができてしまうのです。もし自分勝手な宗教的満足のために異言を利用しているとすれば、そこに愛はないと言わざるをえないでしょう。
 一番すぐれているのは愛なのです。私たちはひたすら愛を追い求めましょう。神さまの愛を追い求めましょう。


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