主日礼拝説教 2023年1月29日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年1月29日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書16章1~12節
  • 説教題:神さまの恵みを見上げて

●説教音声

●みことば

パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。

マタイの福音書16・11

●みことばの一滴

◎パリサイ人とサドカイ人のパン種~神を試す人びと

パリサイ人とは、宗教的に汚れたものを避け聖く生きようとした人びとのことです。彼らは律法を厳格に守ろうとしました。一方サドカイ人とは、祭司にかかわりがあり権力の近くにいた人びとで、この世的に生きることをよしとした人びとのことである、と言われます。この二つのグループは、同じユダヤ人でありながら、その考え方や教えにずいぶん違いがありました。相反するようなこの二つのグループが一つになってイエスさまのところにやって来ました。彼らは「イエスを試そうと」近づいてきました。
この試すという言葉は、イエスさまが悪魔の試みを受けられたところ(マタイ4章1節以降)に出てくる言葉です。「悪魔の試み」(1節)、「試みる者」(3節)。そこで悪魔がなしたことを、今度はパリサイ人やサドカイ人といった人間が行なっています。
イエスさまはこのパリサイ人、サドカイ人の「パン種」に気をつけよ、と言われました。パン種とは、ここでは「教え」(12節)のことである、と弟子たちは気づきます。彼らの宗教的な主張という「教え」には、それぞれに違いがありました。しかしここで「試す」ということにおいて彼らは一つとなっていました。
パリサイ人とサドカイ人のパン種、すなわちその教えに気をつけよ、とは、このような「試す」ということを求めてしまう生き方に気をつけよ、と言われたのだと思います。

「天からのしるし」を見せてみよ、そうすれば私たちは納得する、イエスよ、あなたが神からのものであるのかどうかを私たちが判断しよう、さあ、天からのしるしを見せてみよ、と彼らは迫りました。このような生き方にこそ、人間の罪がある、と聖書は語るのだと思います。
天からのしるしを見て、それを「判断」しようとする「私」。いったい「私」という存在はそんなに確かな存在なのでしょうか。神かそうでないかを判断することのできる者なのでしょうか。あるいはそのようにして、これこそ神である、と私が判断したところで、それが神であるかどうかを確かに判断することになるのでしょうか。罪人でしかない私が判断した神など、本当の神なのでしょうか。
天からのしるしを求める心。そこにはまことの信仰が生まれることがないのです。

◎時のしるしを見分ける

イエスさまは「悪い姦淫の時代はしるしを求める」と言われました。共同訳では「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と訳されていました。しるしを求める心は、神さまにそむいた心なのだ、ということなのでしょう。
天からのしるしを求めるのではなく、「時のしるしを見分ける」(3)ことをイエスさまはお求めになります。五千人の給食、四千人の給食の奇跡を思い起こさせ、そこに明らかにされた「時のしるし」を思い起こすようにと弟子たちを招かれます。神を試す心に生きるのではなく、すでに与えられている神さまからのしるしを発見する心に生きるようにとイエスさまは私たちを招かれるのです。

夕焼けから晴れを予測し、朝焼けから嵐を予測する。空に現れた「しるし」から空模様を見分けるように、すでに与えられている「時のしるし」から、神さまを見分ける、神さまが確かに生きて働いておられることを「見分ける」こと、「発見すること」。そのために私たちは、パリサイ人やサドカイ人がここでイエスさまに対して行っている「試す」という生き方をストップしなければなりません。そのためには、自分の確かさに寄りすがって生きる自己中心から解放されて、神さまを中心とした生き方に改めることが必要なのです。

私の主人が、私、ではなく、イエスさまである、という生き方に変えられていくのです。礼拝は、そのような私に変えていただく時です。時のしるしを見分ける者としていただくために自分が変えられていく時です。自分で自分を変えることはできないでしょう。神さまは全能なお方ですから私を変えることがお出来になります。ですから礼拝において、自分自身を「献げ」ます。神さまの御手の中に献げ、委ねるのです。日々の営みの中にすでに神さまが働いていてくださることを発見する者にしていただけるように、主よ私を変えてください、と礼拝において祈るのです。

●祈り

神さま。いたずらに天からのしるしを求め、あなたを試そうとする傲慢の罪を赦してください。すでに力強くお働きになっておられるあなたを日々発見し、あなたと共に歩む喜びを確かにしてください。


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