主日礼拝説教 2023年1月15日(日)

  • 主日礼拝説教:2023年1月15日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書15章21~28節
  • 説教題:真実の祈りの心

●説教音声

●みことば

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

マタイの福音書15章28節

●みことばの一滴

◎私をあわれんでください

パリサイ人たちからの問いかけを発端として起こった対話の場所をあとにして、イエスさまはツロとシドンの地方に退かれました。そこはユダヤの中心から離れた土地、すなわち信仰的にも周辺に置かれた人たちの住む地域でした。そこに「カナン人の女」が出て来てイエスさまに娘のいやしを願いました。
「カナン」とは、イスラエルが入植した約束の土地をさす言葉でした。カナン人の女性。それは生粋のユダヤ人ではない人物、偶像礼拝を背景に持つ人物を想像させます。その女性がイエスさまに会いに出てきたのです。
彼女は「娘が悪霊につかれてひどく苦しんでいます」とイエスさまに訴えました。悪霊につかれたと表現されている娘さんがどのような状態であるのか想像するばかりですが、そのような言葉でしか言い表すことのできない苦しみがそこにあったのだと思います。そのような女性がイエスさまを求めてきたのです。
「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください」。私の娘をあわれんでください、ではなく、私をあわれんでください、と彼女は願いました。
娘が苦しみの中にあります。しかしその苦しみの中にある娘を抱えている「私」のなかに、また苦しみがあります。この女性は、娘の苦しみもさることながら私の苦しみの解決をイエスさまに願っているのです。
家族や隣人が苦しんでいる、その苦しみを自分の苦しみとしている、ということかもしれません。それほどまでに愛する者の苦しみを自分の苦しみとし、その苦しみの解決を求めている、ということかもしれません。
娘の苦しみを目の当たりにしながら、その苦しみを抱えている自分自身の苦しみをまっすぐに見つめているということかもしれません。決して自分のことばかりを考えている、というのではなく、自分の苦しみから逃げないで、その苦しみをしっかりと見つめ、その解決をイエスさまに求めている、ということなのかもしれません。
愛する人たちの祝福を祈ることは大切なことです。しかし自らの中に苦しみがあるならば、まずその苦しみにしっかりと向き合い、イエスさまに解決を求めていく、ということは、大切なことではないかと思います。「私の苦しみ」は大切なものです。「主よ、私をあわれんでください」との祈りを大切にしたいと思います。

◎拒絶する神、祈りに導く神

さて、ここに驚くべきイエスさまの対応があります。普段のお優しいイエスさまのお姿とは全く違う冷たい、厳しい姿があります。自らに願うこの女性に対して、イエスさまはまずお答えになりません(23)。するとしつこい女性にうんざりしたのでしょう、弟子たちが何とかしてくださいとイエスさまに願いました。それに対してイエスさまは、「わたしはイスラエルの羊以外には遣わされていない」(24)と何とも冷たいお言葉を弟子たちに返されます。しかしそのやり取りを横で聞いていたのでしょう、この女性がやって来て、私を助けてほしい、と願います。するとようやく女性に向かってイエスさまは答えて下さいました。しかしそのお言葉は驚くべき言葉でした。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」(26)。子どもたちであるイスラエルを後回しにしてカナン人であるあなたに祝福を与えることは良くないことである、と言われたのです。おまけに女性のことを「小犬」と呼んでおられます。
この驚くべきイエスさまの態度とともに、さらに驚くべきことは、この女性の反応ではないでしょうか。この女性は一切の文句を言いません。傷つくことなく、またあきらめることなく願い続けます。イエスさまはこの女性に対して三度、拒絶をされたにも関わらず、女性は願い続けたのです。
するとイエスさまはこの女性に対してあらためて向き合い言われました。「あなたの信仰は立派です」。この「立派」という言葉は、大きい、という言う意味です。ユダヤ人に対しても、弟子たちに対しても言われることのなかった、すばらしいお言葉が、この女性に対して語られたのです。

私たちも自らの苦しみをイエスさまに祈り願います。イエスさまはどのような祈りであっても答えて下さいます。またどのような人種であっても、どのような地域に住んでいても祈りを聞いてくださいます。しかし私たちはその信仰生活の中で、拒絶とまでは言わなくても、答えられない祈りに出会います。私たちはそこであきらめるのでしょうか。神さまを冷たいお方とするのでしょうか。そうして祈ることを辞めてしまうでしょうか。それとも、この女性のように祈り続ける者でしょうか。

この女性は、どうしてこうまでも願い続けることが出来たのでしょうか。神さまの拒絶に出会っても傷つくことなく願い続けることが出来たのでしょうか。
彼女は、自分の苦しみとしっかりと向き合っていたのだと思います。その苦しみがあまりにも大きかったので、傷ついたりつまずいたりする余裕がなかったのだと思います。何が何でも解決していただかなればならないと切羽詰まっていたのだと思います。私たちが、すぐに祈りをあきらめてしまうのは、もしかしたらまだ余裕があるからかもしれません。苦しみをしっかりと見つめていないからかもしれません。
イエスさまはこのように祈り続ける女性の信仰を立派であると言われました。さらに「あなたが願うとおりになるように」と言われました。その時、彼女の娘は癒されたと聖書は語ります。彼女のこの大きな信仰を私たちも学びたいと思います。
ただこのような信仰も、イエスさまが与えてくださった、導いてくださった、と私たちは理解すべきではないでしょうか。イエスさまは拒絶をもって、真実の祈りに生きるようにと、彼女を招いてくださったのはないでしょうか。もし私たちが、祈っても聞かれないことを前にしているならば、立派な、大きな信仰の祈りに導かれるチャンスなのかもしれません。

●祈り

神さまへの期待をもって常に祈り続ける者とならせてください。


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