- 主日礼拝説教:2023年1月8日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書15章10~20節
- 説教題:主に清められる
●説教音声
●みことば
口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。
マタイの福音書15章11節
●みことばの一滴
◎天の父が植えなかった木になってはいないだろうか
イエスさまのおことばを聞いてパリサイ人たちは腹を立てました。信仰的な意味をもって一所懸命手を洗っていることを否定されたからでしょう。パリサイ人たちは、人間を汚すものは自分の外からやって来る、と考えました。だからその汚れを自分の中に招かないように一所懸命手を洗ったのです。そのような彼らに対してイエスさまは、口に入ってくる物は人を汚すことがない、汚れは自分の外からやって来るものではないのだ、汚れは口から出るもの、すなわち心の中から出てくるのだ、そのように内面から出てくるものがその人を汚すのだ、と言われたのです。その言葉にパリサイ人たちは腹を立てました。
そのパリサイ人のことをイエスさまは彼らは「天の父が植えなかった木」である、と語られました。パリサイ人たちは根こそぎにされる、彼らのことは放っておきなさい、彼らは盲人を手引きする盲人である、彼らに導かれるならば、やがて彼らと共に滅びてしまうであろう、と大変厳しい言葉を語られたのです。
人間はみな神さまによって造られたものであり、良い木としてこの地に植えられたものです。例外はありません。パリサイ人たちも天の父によって植えられた木であったはずです。しかしいつの間にか「天の父が植えなかった木」にパリサイ人たちはなってしまいました。
汚れは外側からやって来る。すなわち人生の問題や不幸、さまざまな困難はすべて自分の外側からのものである、というその信仰態度が、せっかく神さまに植えられた木であったのに、そうではない木になってしまった原因である、と語られたのです。
人間は神さまによって造られた良い木でした。しかし罪が入ってしまいました(創世記3章)。それで悪い木になってしまった。悪い木になってしまったのに、依然自らを良い木であるとして、外からの汚れを招かないように必死になっている、そのように自らを正しい存在としている。そのこと自体が悪い木であることなのだ、と言われたのだと思います。
パリサイ人たちは、罪びとであるにもかかわらず、自らの内にある罪を見ない。見ようとしていない。あるいは見えていないのです。その上で人びとを導こうとする彼らは、まさに自らの本当の姿が見えていない盲人の手引きなのです。果たして私たちは罪びととしての自らの姿が見えているでしょうか。
◎主に清めていただく~悔い改めに生きる喜び
パリサイ人たちのように、外から来るものが自らを汚す、自分自身は汚れのない正しいものであるとすることは、人生の問題の原因をすべて自分の外からのものであるとすることです。すなわちすべてのことを他者の責任とする生き方を生み出します。罪人としての自分の本当の姿に目を向けようとしません。もしかすると本当の自分の姿、罪人としての姿を見たくないので、外にばかり目を向けようとするのかもしれません。
イエスさまを信じる信仰をいただいた者は、自らの罪をイエスさまの十字架において完全に解決していただきました。それは自らが罪びとの頭であることをしっかりと見つめさせていただいた、ということです。その上で、その罪の一つ一つを神さまが解決してくださった、神さまによって、罪の一切を赦していただき、罪からきよめていただいた、との信仰をいただきました。そうして新しく生きる喜びに生かされている者。それがキリストを信じる者です。
そのためには日々悔い改めに生きるのです。自らの内から「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり」がにじみ出てしまう者であることを、神さまの前にまっすぐに見つめます。罪の一つひとつを神さまの前に悔い改めます。主イエスさまの十字架を仰ぎ見ながら、その一つひとつが解決されることを求めつつ、解決していただいたことを感謝するのです。
「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」。(詩篇1編1~3)
ひたすら自らの罪に向き合い、その罪を解決してくださった主イエスさまを見上げ、その教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。そのような人こそ幸いである、と詩篇は歌います。嘲られることはあっても、自らが誰かを嘲ることをしない、ののしられることはあっても、自らが誰かをののしることをしない。自らが本当に罪びとであることを見つめている人の姿でしょう。その人は日々主の教えを口ずさみます。そのような人生は、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れることがなく、なすことすべてが栄える人生です。まことに天の父に植えられた木として豊かに成長するのです。
●祈り
あなたの前にいつも悔い改めに生きる者としてください。どのような時でもあなたの教えを口ずさみ、あなたによって植えられた木として豊かな人生を歩ませてください。