主日礼拝説教 2021年10月17日(日)

  • 主日礼拝説教 2021年10月17日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書5章38~48節
  • 説教題:信仰者の完全とは

●説教音声

●みことば

あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

マタイの福音書 5章48節

●みことばの一滴

◎キリスト者の新しい生き方

「左の頬を向ける」「上着も取らせる」「二ミリオン行く」「与える」「背を向けない」「敵を愛す」「迫害する者のために祈る」。それが主イエスさまを信じる者の生き方である、と主イエスさまは言われました。
「目には目を・・・」(38)は、出エジプト21章24節、レビ記24章20節、申命記19章21節に記されていますが、いわゆる限定報復を語る箇所で、古代社会において秩序が守られるための知恵です。それに対して主イエスさまは「悪い者に手向かってはいけない」と新しい教えを語られました。キリスト者はここという時に損をする道に生きよ、というようです。そんなことでは社会正義はどうなるのか、社会の秩序はどうなるのか、と思いますが、イエスさまはそのような生き方こそわたしを信じる者の生き方である、と言われます。
社会の秩序が守られること、不公平のない社会を築くことは大切なことです。そのためにさまざまにルールがつくられ、そのルールが守られないことで、誰かが不公平を受けるようなことがあってはならないことです。ですからルールを破るものにはそれ相応の罰が下されなければならないということもよくわかることです。イエスさまはそういう秩序を破壊せよ、といっておられるのではないと思います。
不公平のない社会、弱い者が守られる社会となるように社会によいシステムが築かれるために、キリスト者たちはさまざまに祈りと努力を重ねてきました。しかし歴史が語っていることは、どんなに不公平のない社会を築けたとしても、どんなに秩序立った素晴らしいシステムを築いても不公平はなくならない、それが現実の社会である、だから地の塩、世の光であるキリスト者は、そのような社会の中で、損をする道を選んでほしい、そうして潤滑剤となってほしい、それがイエスさまの御心である、ということではないかと思います。

「敵を愛しなさい」(44)と言われます。「愛する」ということと「好き」ということとは違うことであると言われます。愛するということの中には自分を犠牲にするということが含まれています。好きということの中にはそれは存在しないでしょう。自分を愛してくれる人を愛するというのであれば、それは、結局のところ自分を愛していることであって、好きとそう変わらないのだと思います。それに対して本当の愛は、自分を愛してくれない、むしろ敵対するような中にある人を愛することである、と言います。感情はどうでもよいということではありませんが、愛するということは、感情よりも「意志」の問題である、ということでしょう。自分としては愛する気持ちにならない、それが自然な状況である、というところにおいて、愛する道をあえて選択する、それこそ人間の本当の自由である、というのです。それが主イエスさまを信じる者の生き方である、と言われました。

◎神さまの完全とは

そのような生き方は、私たちの力によっては不可能であると思います。人間業ではない、ということです。イエスさまにそのようにしていただかない限り不可能なのです。
そこであらためて神さまご自身に目を向けなければなりません。私たちが信じた神さまは「完全」なお方です。どれくらい完全であるかというと、悪人にも善人にも太陽を昇らせるほどに完全である、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる完全である、というのです。完全というと道徳的な倫理的な、また法律的は完全を想像します。それも大切なことであると思います。しかしここで語られている神さまの完全とは、悪人、善人、正しい者、正しくない者、いずれに対しても、押しなべて善をなそうとする完全なのです。
この「悪人」や「正しくない者」というのはいったい誰のことでしょう。パウロならば、まず自分自身のことである、と思ったことでしょう。私たちはどうでしょうか。
裁かれ滅ぼされて当然の私に対して、裁かず滅ぼすことをなさらない神さま。それが主イエスさまにおいて明らかにされた神さまのお姿です。それが神さまというお方の完全さなのだというのです。これは見方によれば不公平なことです。社会正義を根底から揺るがせてしまうことです。こんなことでは社会の秩序はいったいどうなるのだろうかと心配になるようなことです。しかしそれこそ聖書の語る神さまの完全さなのです。

主イエスさまの十字架は、まさにこの「神さまの完全さ」が明らかにされた出来事でした。十字架において死なれたイエスさまを、父なる神さまは復活させられました。この十字架こそ、神さまの御業であるということを明らかにするためでした。私たちはこの主イエスさまの十字架と復活を信じています。そしてこの十字架と復活によって生かされています。私たちはこの十字架と復活において明らかにされた神さまの完全さによって生きていくのです。そうして私たちも完全な者とされるのです。

もし私の信仰の歩みに「損な部分」が欠けているとすれば、未だ完全になっていないということかもしれません。もし「損な部分」に悩み苦しんでいるとすれば、そこでこそ信仰生活が完全な者となっているのです。そうしてキリスト者の完全さに生きているのです。

●祈り

  • ときに損と思える道を選択することが信仰の完全に生きる道であることを教えてください。
  • 日々十字架を負ってあなたに従う者とならせてください。

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