霊的賜物について

教会には、さまざまな賜物を持った兄弟姉妹たちがおられます。それぞれがそれぞれの賜物を生かし活き活きと信仰生活、奉仕生活を送るところ、それが教会の健康な姿です。牧師は、そのためにさまざまな配慮をしつつ労します。

上手にできるかどうかが大切なのではなく、献身の心を育てることが大切です。交わりの中で、協力と一致の中で、教会は前進します。牧師や賜物をもった一部の人でやってしまった方が上手にできる、簡単にできるということもあるでしょう。いくら上手にできたとしても、ひとりの人が何もかもをしてしまうよりも、少々はうまくいかないところがあったとしても、皆で協力してやるところが教会であってほしいと思います。

賜物にあふれた牧師ほど、自分で何もかもやってしまいたい誘惑がありますから、気を付けましょう。

さて、賜物にはさまざまなものがありますが、賜物と能力との違いは大切です。賜物とは神さまから与えられたもの、決して自分の功績に寄らないものということですが、能力というと、どこかその人物の努力や功績に視点が移る感じがします。奉仕に当たる兄弟姉妹が、能力ではなく賜物によって奉仕をささげているということが、教会の健康を支えます。

蛇足ですが、賜物の中で「異言」については、私たちの団体の在り方に倣い、個人生活の中では自由ですが、公の場、公の集い(教会での礼拝)では強調しませんし、勧めることもしません。

「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。」(第一コリント14章4節~)。

賜物というのは、常に教会の徳を立てるためにあります。


投稿日

カテゴリー:

,