『愛と自由のことば』より(29)

「だれかを愛していると思っても/それはしばしば、自分を愛しているにすぎない・・・子よ、わかるか、愛は痛みだ・・・おのが身を十字架にかけることなのだ」〔ミッシェル・クオスト〕

 フランスのひとつの町で青少年指導に当たったカトリック司祭のことば。痛みのない愛は結局は自己愛であり、ほんとうの愛ではないということでしょうか。なかなか厳しい言葉です。

 聖書の語る偶像礼拝とは、結局のところ自己愛のことを語っていますので、痛みのない愛に生きているならば、それは偶像礼拝に生きてしまっていることとなります。

 イエスさまは、自分を愛するように隣人を愛せよ、と言われましたので、自分を愛する、自分を大切にするということは決して間違っているわけではありません。しかしそれが隣人への愛に結びつくために、常に必要なことは、神さまへの愛です。神さまへの愛を忘れた自己愛は偶像礼拝となるのでしょう。神さまを愛すること、自分を愛すること、そして隣人を愛すること。この三つがひとつとなる道に真実の信仰生活は前進します。いずれかが欠けてしまうならば、タイヤのとれた三輪車のようなもので、不安定で危険な人生となります。自分を破壊するだけでなく、道行く人々をも傷つけてしまいます。

 十字架の主イエスさまを見上げつつ、与えられた道を前進しましょう。