『愛と自由のことば』より(28)

「われわれは首を垂れて、『主よ憐みたまえ!』『キリストよ憐みたまえ!』と祈るほかはない」〔小塩力〕

 小塩牧師は説教を真面目に聞いてくれた青年で二年続けて猛暑の季節に自らいのちを断ったひとがあることを振り返っておられます。その死の原因をさぐろうとしても「一つの魂の孤独の深さと、現実によってひきさかれている魂の裂け目のいたさとは、生きのびているわれわれに触れることを得しめない」とその説教の中で語られました。それに続く言葉が上記の言葉です。

 さらに言葉は続きます。「いつも彼らと共に在って、キリストの臨在を指し、死神のよび声にさからうかげとなりえたのだったら、と思う」と。

 あらためて自らの限界を知る者が真の説教者であると思います。それは「祈るほかない」ということを知っているということです。祈るほかないということを知っている者だけが、共に在ること、キリストの臨在を指すこと、そして死神の呼び声にさからうかげとなることを得させていただけるのでしょう。なまじ祈らなくても自分の力でなんとかなるなどと思っているときは、だれかと共に在ることも、キリストの臨在を指し示すことも、死神の呼び声にさからうかげとなることもできないものです。

 主よ憐みたまえ! キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン!