●『愛と自由のことば』より(23)

「われわれにとっては『目に見えない―ただ、神の御目にしか見えない―教会』を信じることが必要なのであるが、それと同じように、われわれには、人間の目で見て『(見える)教会』と言われるものをも重んじ、これとの一致を保つことが命じられる」(カルヴァン)

礼拝では使徒信条において「公同の教会を信ず」と告白しています。「公同」とは公けに同じと書きます。「カトリケー」(ギリシャ語)が語源で「普遍的」という意味です。普遍的という言葉も難しい言葉ですね。一般的とかあまねく同じ、あるいは特殊という言葉の反対などなど。キリスト教会はこの普遍的な教会を信じていると告白します。これはカルヴァンの言葉によると「目に見えない教会」「神さまの御目にしか見えない教会」ということが出来るでしょう。これを信じているということは、いま連なっている教会、私たちにとっては東近江キリスト福音教会の事ですが、この一つの地方教会も完全な教会ではないということを告白することでもあります。別の言い方をすれば「私たちの教会こそ正しい教会であって、他の教会はどこか間違いがあるのだ」という独善的な考え方から自由にされているということです。

しかしだからと言って、目に見える教会である私たちの教会を、あるいはこの地上の教会を軽んじてもよいということではありません。むしろ重んじるべきです。目に見える教会を愛することが出来なくて、どうして目に見えない教会を愛することが出来るでしょう。

目に見える教会にはさまざまな欠けや足りなさ、弱さがあります。この目に見える教会が、ひたすら目に見えない教会と一つとなるようにとの祈りがキリスト者には命じられています。