●『愛と自由のことば』より(21)

「『・・・〈体験〉とか〈敬虔なる畏怖〉とか聖なる感情といった言葉は、敬虔主義者たちがおちいった邪道にすぎない』と言って、風呂の水といっしょに赤ん坊まで流してしまうような誤りを犯すべきではありあません」(ヘルムート・ティーリケ)

 ナチスの迫害の中を生き、戦後は組織神学を教えたドイツ・ルター派牧師ティーリケ。「霊は、彼らの中に起こることではなく、彼らに対して起こること」と聖霊に満たされることについて論じます。
 私の体験や感情は、信仰に先立つものではなく、信仰の後についてくるものであり副産物であるということですが、かといってそれらを意味のないものであると退けてしまっては、大切なものまで失ってしまう、ということでしょう。
 イエスさまは2千年の昔、十字架と復活によって贖いの業をなしてくださいました。それは私の体験や感情にかかわりなく聖書に記された歴史的な事実です。またその御業が私の為であったと信じ受けいれることも、神さまの一方的なお働き、聖霊さまのお働きによるものです。ですからどんなに私の感情が揺れ動いても、この信仰は変化することがありません。しかしこの信仰によって、私の中に喜びや感謝が生まれるということ、そのような体験、自分の中の変化もまた大切なことです。一方に偏ることのなく絶妙なバランスの中にこそ聖霊に満たされた人の信仰生活があるのですね。