●『愛と自由のことば』より(19)

「自己の悲惨を知らずに神を知った人々は、神に栄光を帰したのではなく、自己に栄光を帰したのである」(パスカル)

 台風が近づくとその大きさを何々ミリバールと表現されていたのが、いつの間にかヘクトパスカルといわれるようになりました。その語源になったパスカル。ウィキペディアによると肩書は哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者とのこと。先週の礼拝後に以前の説教中にお話ししたこの言葉についてお尋ねくださったので、あらためてご紹介します。死後遺族によって編纂された『パンセ』からの言葉です。
 聖書は人間の原罪を語ります。私たちは皆罪びとなのです。他人のことではなく、この私が罪びとの頭である、ということ。それが自己の悲惨を知るということです。これを飛ばして、神さま、神さま、などと信仰を主張してもそれは結局、神さまに栄光を帰しているのではなく、自分自身に栄光を帰しているだけのことである、というのです。
 自己の悲惨を知るということは、自己卑下することでも、自己憐憫におちいることでも、はたまた開き直ることでもありません。本来人間が自力ではできないことなのです。神さまの愛にお出会いしてはじめて人間は自己の悲惨さを知ることができます。ですから自己の悲惨を知らないということは、たとえ神さま、神さまといっていたとしても、結局それは聖書の神さまにお出会いしたことではないということでしょう。