「イエス・キリストの死において、神は、この世の神を冒す否を永遠にご自分で引き受けておしまいになったのである。そしてイエス・キリストの死人の中からの甦りによって、この否に対して、世に対するご自身の然りを、あらゆる時代にわたって対置せしめられた。これがキリストの奥義である。」(エーベルハルト・ユンゲル)
「神を冒す否」とは、神さまを信じない心、神さまをないがしろにする心、神さまを否定する心のことです。直接に神さまに対して敵対するような言動に生きることもありますが、それ以上に神さまがお造りになられたこの世界の被造物に対して破壊的な言動をすることも「神を冒す否」でしょう。神さまがお造りになれたものとは、天と地、自然、動物、植物、すべてのものです。環境を破壊することや人権を冒すことも、その創造者である神さまをないがしろにすることであり「神を冒す否」です。人類は創世記3章からずっとこのようにして生きてきました。ですから科学の進歩、文明の発達によって世界は良くなったのかというと、もちろんそういう部分はありますが、それ以上に問題は大きく複雑化し、人びとは憎しみ合い、人間の心の闇はますます深まるばかりです。
このような神さまに向かっての「否」に対して、神さまは「十字架と復活」をもってお答えくださいました。十字架において神さまは人間の否を「引き受け」られました。復活においてこの人間の否に対して「然り」を対置させられました。
「キリストの奥義はわれわれの生活のどんなに暗い片隅にも、この世のどんなに悲しいところにも約束に満ちた光を投げかけるのである」
コメントを残す