●『愛と自由のことば』より(8)

「人間の世渡りは、たとえば水車の様なものである。・・・水車は下の方の一部を水に入れて、その流るるかたに従うて行くかと思えば、それと同時に上の方の大部分は、水の外にあって、しかも時時刻刻、すっかり水とは反対の方角にまわって行くゆえ、始めてその水車としての働きができるのである。・・・キリストの兵士はこの世に住まえども、この世にぞくするものではない。」(山室軍平)

 水車において水とは「この世」のこと。この世にすっぽりと入ってしまっては、ただ世俗の濁流に押し流されるだけ。かといってこの世には一切かかわらず空中に浮いたような状態では、自分勝手な卑怯者であると山室先生は語ります。水につかっている部分では流れに従って回るのですが、上の部分は水とはまったく正反対の方向にまわって行くことで、水車としての働きが出来るのです。キリスト者はこの世の人びとの中にあって、皆と一緒に毎日の仕事に勤めつつ、その心はまことの神さまを仰ぎ、この世の罪や咎に反抗して清く正しい道を歩みます。
 どれくらい水につかっていれば水車としての働きがより良く出来るのか。どれくらいこの世につかっていればキリスト者としてより良く生きることが出来るのか。地上にある限り常に微調整が必要であるのかもしれません。少なくともどちらか一方ではより良い人生を送ることが出来ないということでしょう。


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