●『愛と自由のことば』より(7)

「聖書の言う真実は、深いけれども狭いものではなく、深くして大きなものである。倫理的な真実は、ともすれば人間を偏狭に、独善的にさせやすい。・・・信仰的な真実は、他を容(い)れ、他を包む包容的なものであるはずである。真実は愛に結びつかねばならない。・・・どんなに不真実な者とでも、一緒に歩いて行ける真実である。」(浅野順一)

 事実や真実ということは嘘偽りがないということです。嘘偽りがない言動にも人を生かすものとそうでないものがあるようです。自分の心を偽らないということで、心に浮かんだ言いたいことをそのまま口に出す人がいます。その言動にどれだけ多くの人が傷ついているかなどは頓着しません。自分は嘘偽りをいっていないと胸をはっています。確かに事実を表現しているのかもしれません。しかしそこには真実はありません。
 かたや言いたいことがあっても、それが人にどのように受け取られるかを逡巡し精査し、人を生かす言葉が見つかった時に初めて口を開く人がいます。そこにはいわゆる事実を少し曲げている表現もあるかもしれません。それを嘘偽りと取る人もいますが、温かい配慮と感謝する人もいます。人を生かすものであるならば、事実に反することが含まれていたとしてもそこには真実があるのではないでしょうか。
 イエスさまは私たちに真実に生きる道を教えてくださいました。罪人のためにいのちをささげられたご真実なイエスさまに学び続けたいと思います。


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