「キリストを執えるのでなくて、彼に執えられるのである。・・・我らがキリストを執えるというところに重心がおかれては、我らの信仰は弱く、偶然なものにあやつられやすい。しかしキリストに執えられるのである。ここに我らの信仰のたしかさがあり、必然がある。これは恩寵の把握だからである。」(高倉徳太郎)
イエスさまを信じるということが、私の知恵や信仰心といったものでイエスさまをとらえるということであるならば、大変不安定なことです。私の知恵や信仰心が私のものである限りそこには限界があります。人間が欠けだらけの罪人であるということはそういう限界をもっている存在であると告白することです。
聖書の語る信仰は、そういった自分の知恵や信仰心でイエスさまをとらえることではなく、イエスさまご自身に自分のほうがとらえられることです。イエスさまにとらえられている自分であるということを受け入れ、そこに安んじて生きることが聖書の語る信仰なのです。
自分が信仰の土台である限り、どこまで行っても平安はありません。しかしイエスさまが土台であるならば、どんなに自分が弱く不安定なものであっても、この信仰は揺るぎません。聖餐式の度に自分を吟味するのは、洗礼を受けているということを吟味しています。それは自分がイエスさまをとらえきれているかどうかではなく、イエスさまにとらえられた自分であることを吟味しています。その証しが洗礼です。洗礼はいかに自分が信仰を持って立派にやっているかという自分の勝利宣言ではなく、全くの罪人でしかない私を一方的な愛で愛してくださった神さまへの降伏宣言であり、神さまの勝利宣言です。
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