●『今日のパン、明日の糧』(ヘンリ・ナウエン)より(5)

「もし私たちが受け入れられることを条件に許すのであれば、ほとんど許していないのです。」

 うらみを抱いてゆるすことのできないという人はいるでしょうし、またうらまれたままでゆるしてもらえていない人もいるでしょう。ゆるさないぞ、ということで相手をしばっているようですが、実のところは自分の心のほうがしばられているのではないでしょうか。もしゆるしたりゆるされたりすることができればどんなに自由な人生になることでしょう。
 向こうから和解の手が差し伸べられて、それに応えてこちらも和解の手を差し伸べることよりも、主にあるものはどのような状況であっても自分の方から率先して和解の手を差し伸べる者でありたいと思いますが、これがなかなか難しいのです。こちらから「ごめんなさい」といってそれが受け入れられればいいのですが、受け入れられない事態も想像できます。受け入れられないならばやはり「ごめんなさい」ということは難しい。やはり受け入れられることを条件にしてゆるしの言葉を語ろうとしているのですね。
 ナウエンは、それはほとんど許していないのだ、といいます。本当のゆるしは、相手の反応にかかわらずゆるしの心に生きるということです。信仰に生きる者は、神さまの赦しを信じた者です。それは人間にゆるされるかどうかということから自由にされたということでしょう。主にある者はひたすら和解の道に生きるのです。


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