●デボーションからの黙想(15)~ボンヘッファー『主のよき力に守られて』より◎神に知られている

「イエスに知られる」ということは、われわれが「さいわいな者とさせられる」、あるいは「イエスとの交わりに入れられる」ということを意味するのである。」
(ボンヘッファー、『主のよき力に守られて』より)

 信仰を持つということは、神さまについて知るということです。しかし聖書はそれに先立って「神に知られている」つまり神さまの方が私たちのことを知っていて下さる、と語ります。良い羊飼いであるイエスさまはご自分の羊をよくご存じなのです(ヨハネ10章14節)。迷いやすい羊である私のことをよく知っていて下さるイエスさまだから、私もまことの羊飼いであるそのイエスさまのことを知る者とならせていただけるのです。
 信仰生活で大切なことの一つは、この「神に知られている」ということを受け入れるということではないかと思います。
 神さまのことがわからない時があります。しかしそのような時でさえ、神さまは私のことをよくご存じです。目の前の問題で心に余裕がなく、周りが見えなくなるときも、そのような私のことを、良い羊飼いであるイエスさまは知っていて下さるのです。安心して祈り、安心してゆだねることができます。イエスさまに知られているということは、なんと幸いなことでしょう。


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