「水源地になりなさい。 水道管であってはなりません。」
クレルヴォーのベルナール(1090~1153)
水道管は、水を受けるけれどもすぐに流してしまいます。管(くだ)ですから仕方がありません。それに対して水源地は、水がたまる所です。水がいっぱいになってあふれるようになり、そうして流れ出て人々をうるおします。水源地のように、私たちは神さまの愛、恵みに満たされて、いっぱいになって、あふれ出て、そうして隣人へ愛を注ぎ、恵みを語り、隣人をうるおします。
無くなりかけたマヨネーズを絞り出しすのではなく、はちきれんばかりのチューブからあふれ出るように。そこにこびりついた味噌をこそげるのではなく、ぎゅうぎゅうに詰めた味噌樽の淵からあふれ出るように。隣人への愛に生きる者でありたいと思います。
そのためには、まず私が神さまの愛に満たされることです。満たされないうちは何もしなくていいのです。満たされていくことを待ち望みつつ、み言葉と賛美、祈りに生きていましょう。おのずと満たされていきます。満たされたならば、そのにじみ出る愛が、隣人をうるおします。なんと素晴らしい人生でしょうか。
コメントを残す