●デボーションからの黙想(3)~ボンヘッファー『主のよき力に守られて』より◎隣り人となること

「隣り人であるということは、だれが隣り人なのかと品定めをすることではなく、・・・自分自身が隣り人となることであって、そうでなければ無意味である。」
(ボンヘッファー、『主のよき力に守られて』より)

 あるとき律法の専門家がイエスさまに質問しました。「私の隣り人とはだれのことですか」。それに対してイエスさまは「だれが・・・隣り人となったと思いますか」と問い返されました。だれかを愛そうとするとき、自分自身が隣り人になるということ、つまり自分自身が隣り人に変革されていくこと、その覚悟が必要です。自分自身は一切変わろうとせず、自分の願い、自分の思想、自分の立ち位置を一切変えずに、だれかを愛そうとすることは、愛することにはならないのです。むしろ相手を傷つけるだけとなるでしょう。
 隣り人となること。自分の主張は横において相手の言葉に耳を傾けること。自分のほうに引き寄せるのではなく、相手のところに出かけて行くこと。自分の計画や予定を一時ストップして立ち止まること。きっとそのように自分自身を変えることが、隣人となることなのでしょう。
 そんなことが罪人である私に果たしてできるでしょうか。私たちにできることはただイエスさまが私たちの隣り人になってくださったことを少しずつ学んでいくことではないかと思います。


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