続・牧会ずいそう<110> 事実があって論理

 人は、決めた通りに事が進むことを欲する。計画を立てこれを実行する能力のある人は尊敬される。まず論理があって結論が引き出されると考える。しかし、実際には中々そうはいかない。むしろ実際は、事実(結論)があって、なぜこうなったのか、こうなる原因は何だったか、どのような経過をたどりこうなったかと論理を組み立てて行くことの方が多い。科学や思考が何かを生み出したと言うより、現にある事実に付いての探究と科学が論理を組み立て、これが応用されて類似品を造り出すことに役立ったと言うべきだ。「はじめに神が、天と地を創造された。」この事実が提供されたからこそ、これを探究し科学することが始まり、論理が作られていった。一旦役立つ論理が造られるとこれが応用されて新しいものが造られる。すると人は、論理が何かを造り出したかのように錯覚する。信仰は神の事実を認識し確認することから始まる。論理によってではなく、キリストの事実に基づき、神の約束を信じる者が救われる。救いと恵みの事実がどのように起ったかを論理付けるのが神学である。人は神学によって救われるのではない。


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