続・牧会ずいそう<86> 神を見る

 神を見ることが出来たら・・と思う。この目で見えないから信じることが必要なのだろう。しかし、キリストは、私を見る者は神を見たと言われた。キリストの在世中、キリストを見ていても、このお方がキリストであると信じる者は少なかった。やはり信じないと見えなかったのだ。今の私達も同じであるが、鏡に映るように見ている。とパウロは言う。天国に行けば、顔と顔を合わせて見ることができるが今は、鏡に映るようにぼんやりと見ている。その頃の鏡はぼんやりしか映らなかった。銅板等の金属を磨いて鏡として使ったようだ。ガラスの鏡は、1317年ベニスで造られた。ガラスの鏡は良く映りよく見える。しかしやはり映るものを見ていることに変わりない。私達は今、自分の顔も映るものを通してしか見ていない。神のみ顔も映るものによってしか見えない。神のみ顔を映すものは聖書であり、聖書は神のみ顔を見る鏡だ。他にも神の似姿を映すものに、被造物=自然界がある。キリスト者も神を映すものと言われている。鏡は曇っていると良く映らない。割れたり、曲がっていると正しく映さない。神を良く映し出すような者になりたい。


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