続・牧会ずいそう<72> 十字架が入ると

 ある人のホームページに星野富弘さんの詩が引用されていた。「辛いと言う字がある。もう少しで幸せになれそうな字である」。良い言葉だ。それ以上付け加える必要はないが、ふとこんなことに気がついてしまった。「辛」と言う字の上に「十」字を書くと、「幸」になる。「十」字の上に立つだけでは「辛」が、「十」字の下にも立ち上下からはさまれると幸になる。「辛い」時に十字架を仰ぐと神の恵みによって幸になることは事実だ。何度も経験している。十字架の上に立つだけでは「辛い」、苦しい。しかし主の十字架を仰ぎキリストと共に死んだ者と認め、今生きているのは、私のために死んでよみがえったキリストによると知るようになると、確かに「幸い」なものとされる。勝手なこじつけかも知れないが、そう言えば、力ばかり合わせても力むばかりであるが、十字架が入ると「協力」になる。十字架によりそって力をあわせることが「協力」なんだと独り合点してしまう。変な言葉遊びをしたようであるが、十字架に思いを馳せ、十字架に結び付けると幸を知る機会となる。主キリストの十字架こそ恵みの泉である。


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