続・牧会ずいそう<64> 神様の取り分

 お土産に栗きんとんをいただいた。箱をあけると説明書が有り、「神様の取り分」と言うことばが心に留まった。こげ製法を守っていると言うことなのだが、こげは神様の取り分で、こげができるまで煮込むことがこの栗きんとんの特色だと言う。そう言えば、母がよく、柿やいちじくを取る時、「全部とったらアカンで、一つや二つは残しとかな、神様の分やで。神様が鳥にやらはるんやで」と言っていた。旧約聖書の中にもそのような記事がある。果物や、麦の落ち穂をそのままに残すように。貧しい人々がそれを拾うことができるようにと言うことだ。他の人が恵みの分配に与れるようにすることは神のみ心に叶うことであり、それを神様の取り分として献げるようにと望んでおられる。十一献金も、正しく「神様の取り分」である。神様の取り分を自分のものにするのは神のものを盗むことになる。マラキ3:8?11にそのことが書いてある。そしてこうある「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。」


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