続・牧会ずいそう<62> 聖めて用いる

 依然に宣教会議かセミナーで軽井沢に行った時の事、キャンプ施設の一隅に、宣教師が管理運営しておられた喫茶施設があった。中に入るとセンスの好い飾り立てで、落ち着いた雰囲気が漂っていた。目新しいものもあった。そこに置いてあるもの全てがその雰囲気に溶け込み、又生き生きして見えた。壁に飾られた花を見て、次に目を移そうとした時、あれ!と振り返って、もう一度見直した。花ではなくその花瓶をである。どこかで見たような気がする。よく見ると、正しくそうなのだ。和式の便器である。それが逆さに壁に掛けられ、きれいな花が活けてある。花瓶として見ていれば何の場違いな感じもしない。眺めているうちに、聖めて用いて下さる神の愛と恵みに心が熱くなった。罪に汚れたものが、神に見い出され、キリストの血潮に聖められ、神の器として用いられるようになった事がその和式の便器と重なって来た。人は発想の転換を試み新鮮さを求める。文化の違いによって発想の範囲も広がるが文化ショックも起る。神の恵みを受け入れる時も、時にはショックもあるが、新しいぶどう酒には新しい革袋が必要だ。神は聖めて用いられる。


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