続・牧会ずいそう<43> 器より中身

 人は箱を見て中身を推測する。立派な箱を見ると、中身は高価で貴い物、価値ある物が入っているに違いないと思う。しかし、箱がみすぼらしいと、中身は大した物ではない。と粗末に扱う。時には中身はなくとも、立派な器であれば、その器を大切にする。床の間に飾り、来客に自慢することもある。しかし神は、器よりも中身を大切にされる。神の御子が世に来られた時も「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」イザヤ53:2?3。キリストはむち打たれ、傷つけられ、砕かれ、十字架に釘付けられ、殺されて、私たちの罪の身代わりとなり、救いの道を開いて下さった。このキリストは今信じる人々の中に、御霊となって宿って下さる。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」コロサイ2:3。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れている」Ⅱコリント4:7。キリストの器として神は愚かな者を選ばれた。誇る者は主を誇れ!


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