〔私の宣教スケッチ 35〕 教師会への大移動

当時は、月に1回の教師会が、団体の決議機関であり、交わりの時であった。宣教師も日本人教師も、すべての教師が、家族ぐるみで参加した。食事を共に造り、共に食べ、会義以外の時には、時に作業もあり、ピクニックもあり、卓球などのリクレーションもあった。子供たちは親の集会中本部の内外のみならず、近隣一体を遊び場として走り回った。大人が会義を終えて出てきた時、子供たちの集まりから出てきた旨宣は、「何にも決まらなかった」とつまらなさそうに言ったこともあった。この教師会に吉野から毎回出てくるのは大騒動である。普通は1泊するが、時には2泊、3泊もある。着替えや赤ん坊の食事の用意もいる。おもちゃも持たねばならない。段ボールに詰め込み、時には二つにはなる。その他に鞄、ふくろ。当時は宅急便などない。車もない。月曜の朝5時10分頃の電車に乗り込むためには4時頃から子供を起こし準備が必要になる。下の恵美は生まれ手間もない頃からこれがはじまった。色々起こったハプニングは交わりを楽しくする話題ともなった。


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