続・牧会ずいそう<27> 神様の出番

 その演劇の主役として期待され、招かれていた人が、手渡されたシナリオやプログラムに自分ので番がないことを知ったらどう思うでしょうか。その働きを期待されて招かれていた筈なのに、その企画の中に、自分の意見が少しも反映されず、自分の働きの出番がなかったらどうでしょうか。神様の働きを期待している筈のキリスト者の毎日の生活の中に神様の出番が期待されていなかったら、本当は神様を閉め出していることにならないでしょうか。何かを計画する時、その計画書の中に、神様の御意見が反映されず、神様の助けと導き、神様の働きに期待するところがなかったら、その計画書からも神様が閉め出されているのではないでしょうか。教会の企画や働きにおいて、教会の現実やそこに参加している人達の可能性、現況だけが重要視され、神様に期待するところがなく、神様の働きに期待しているところが見えない、神様の力への信仰があらわれていなかったら、教会の働きや企画にさえ神様の出番がないことになないだろうか。神様はキリスト者や教会の働きにおいていつも主役であるはずです。主役にふさわしい出番を設けて期待しよう。


投稿日

カテゴリー:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.