〔私の宣教スケッチ 8〕 日野に住む

サンデ師は、栗東から日野に通って日野の集会の責任も持っておられた。その責任を私が持ち、日野に住むことになった。栗東でのトラクト配布は3回目を終ったばかりで心残りであったが、サンデ師に委ねることになってしまった。守山には集会のある水曜日の午後からと日曜日の午後から出かけて行く事になった。日野の集会所は古い建物で、裏には製材所があり一日中機械の音がしていた。音だけでなく、裏の畑には製材の引き粉が降りたまっており、家の中にまで入って来る始末であった。電灯は一つしかなく、その一つをあちこちへと持って行かねばならない。床も所どころ緩んであり、特にお便所の中は不安定であった。こんなところにも近所の子供たちはよく来てくれた。学校の帰りには寄って行く、食事をしていると覗きに来る。大人の教会員は名簿には1人であった。この一人も大阪の病院に入院中で、やがて召された。ここが私たちの新婚生活の始まりの舞台となった。


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